会社員ライブラリー

しがないサラリーマンの書評やエンタメ鑑賞の記録

【書評】仕事をイーブンにこなす”事務の人”の矜持――『これは経費で落ちません!~経理部の森若さん~』

 本作の主人公である「森若さん」は、まさに「事務の人」である。少々乱暴な言葉を使うとするならば、「事務の擬人化」と言い切ってよいだろう。それは本作を通じて森若さんの振る舞いや思考回路を追うことで、自然と納得できるはずだ。

「事務の人」≠「正義のヒーロー」

 青木祐子による『これは経費で落ちません!』シリーズは、中堅メーカーの経理部に勤める森若沙名子が社内の問題や人間関係のトラブルを淡々と処理していく「お仕事小説」である。2016年に第1巻が出版されて以降、24年3月時点で11巻まで刊行されており、シリーズ累計発行部数は190万部にのぼる。2019年には多部未華子主演で実写ドラマ化され、こちらも好評を博した。

 経理部社員である森若さんのもとには、日々さまざまな領収書が持ち込まれる。出張費、接待交際費、手土産代など用途は多岐にわたり、これらを森若さんが1件ずつ金額や用途の妥当性を精査する。しかし、なかには業務利用が疑わしい領収書が持ち込まれるも少なくなく、これを追及することをきっかけに、森若さんが社内の疑惑や問題、人間関係のゴタゴタに巻き込まれていく――というのが大筋のストーリー展開だ。

 例えば、第1巻の第一話「これは経費で落ちません!」では、営業社員の山田太陽が「4800円 たこ焼き代」と記された領収書を沙名子のもとに持参する。取引先との食事代、しかも「たこ焼き」で4800円は高すぎないか。何か裏があるのではないか――。そうにらんだ森若さんは、以後、太陽の行動を注視するようになる。実際、これは取引先との食事代(取引先社長の子どもの好物がたこ焼きだった)で、沙名子の調査によってこれが明らかになり、領収証の妥当性と太陽の潔白が証明される。ちなみに、今回の件を機に森若さんと太陽の仲が接近。太陽から好意を寄せられるようになる(森若さんと太陽の恋模様も次第にフィーチャーされていく)。

 このほかにも、製造部員による経費の私的利用や営業部員による不必要に長い出張など、領収書1枚を起点に社内の人間模様や思惑、問題点が徐々に浮き彫りとなっていく。ときには不正を働いた社員を告発することもあるが、金額的に重要性の低い取引でのズルやごまかし、業務と私用の判断に迷うような場合は釘をさすだけに留めている。

 なぜ踏み込んで追及しないのだろうか。それは森若さんの本分が、「経理部」の職務をまっとうするところにあるからだ。経理部の業務は会社の規模によって濃淡はあるだろうが、大まかにいうと資金を管理すること、経済取引の結果を帳簿類に記すこと、試算表や決算書などの集計表を作成し、経営者に報告することが挙げられる。搔い摘んで言えば、「資金の管理」と「財務諸表の作成」、「経営者の意思決定に役立つ情報の提供」こそが、経理部に与えられた役割だ。少なくとも、不正を働いた社員を断罪することは、経理部の役割ではないはずである。

 森若さんの判断基準はいたってシンプル。「経理的に問題があるか否か」だ。だからこそ、森若さんはあくまでも経理部の社員という立場から、領収書の不備や妥当性を追及する。経理的に問題があれば責任を追及するし、(当人に悪意があっても)表面上の問題がなければ、それ以上に追及することはない。

 このように職域によって境界線を引き、その線を極力越えようとしない森若さんの姿勢は、彼女の職業観が多大な影響を与えている。森若さんの職業観、それは「イーブン」という言葉に集約される。入ってくる量と出ていく量が同じであること。差し引きゼロ。貸借が一致している状態こそ、彼女の理想なのだ。

 森若さんは会社の飲み会や社員とのプライベートの関係構築には拒否反応を示すなど、公私をきっぱりと分ける人物だ。自らに与えられたミッションを100%まっとうし、その分の給料をもらう。彼女が会社や仕事に求めているのはこの一点だけ。だからこそ、森若さんは自らの業務の範疇を超えた物事には極力踏み込もうとしないのだ。経理という会社から与えられたミッションをこなし、その分の報酬を得る。森若さんが望むのは、ひとえにこの貸借の一致だけである。

 森若さんは社員の不正を白日の下にさらし、会社の正義を体現する「ヒーロー」では決してない。経理部の人間として経理の仕事をまっとうし、担当外の業務とは距離を取る、どの会社にも一人は存在する「事務の人」なのである。そう、森若さんは何も特別な存在などではなく、きわめて普遍的な市井の人間なのだ。

 こうした森若さんのスタンスは、本作の位置づけにも直結している。すなわち、社員の経理不正を暴き、成敗することではなく、領収書の不備から会社員、ひいてはヒトという”ずる賢い”生き物の一挙手一投足を描くところに本作の本質があるのだ。

事務化する結婚準備

 森若さんが「事務の人」たるゆえんは、彼女のプライベートにも表れている。

 本作では森若さんと太陽の恋模様が横軸として貫かれている。そしてそれは、巻を追うごとに色濃く描写されるようになる。第1巻で森若さんに恋心を抱くようになった太陽。2人の関係は徐々に近づき、4巻で交際に発展。9巻でプロポーズを受け、11巻で結婚に向けて準備を進める様子が描かれている。

 この結婚準備を進める森若さんの行動は、まさに事務的の一言に尽きる。森若さんは結婚に向けて話し合うべきこと、解決すべきタスクをエクセルにまとめ、これをPDF化して太陽に共有する。実家へのあいさつ、会社への報告、苗字変更など、結婚にあたって必要な手続きを表にまとめ、管理しようとしたのである。この行動は、対象が会計数値から結婚手続きに置き換わっただけで、行為そのものが「事務的」であることに変わりはない。

 2人のプロポーズもメールでのやり取りだった。

「結婚しよう」(太陽)

「了解です」(森若)

(『これは経費で落ちません!10』P186 カッコ内は筆者注)

 結婚準備というごくごくプライベートなやり取りについても、自然と事務手続きと化してしまう。これらのやり取りからも、森若さんを「事務の擬人化」とたとえた理由が理解できるだろう。

 とかく事務処理はルールが事細かに定められており、手続きが面倒なものとして語られがちだが、面倒だからこそ物事をミスなく正しく処理することができるのだ。そしてそれを下支えしているのは、森若さんのような事務職の存在に他ならない。

 経理部の森若さん――本書の副題、特に「経理部の」という連体修飾語からは、業務もプライベートも事務的に処理する「事務の人」としての矜持が伝わってくる。

【書評】気鋭の哲学者が誘う「言語をめぐる旅」――『中道態の世界 意志と責任の考古学』

 中動態。おそらく多くの人にとって耳なじみのない言葉だろう。端的に言えば「能動態」でも「受動態」でもない態のことだ。
 例えば、「謝る」は能動・受動のどちらに当てはまるだろうか。謝るという行動は、言うまでもなく謝罪の気持ちを自らの動作で表したものだ。それゆえに、一見すると能動的行為のように思えるが、もし当人に謝罪の気持ちが伴っていなかったらどうだろう。すなわち、「申し訳ない」とは言うものの、心の中では反省していないといった場合である。こうなると、謝るを一概に能動的行為と位置づけることは難しい。自分から進んで謝罪の気持ちを表明していないのだから。
 では、受動的な行為に当てはまるかというと、事はそう単純ではなさそうだ。謝るという行動を取っているのは自分自身に他ならない。つまり行動の出発点は自分にあるのだから、受動態とも言えないのである。このように能動と受動で区別してしまうと、「謝る」という行為を説明することは途端に難しくなる。
 卑近な例で恐縮だが、一昨年の「Mー1グランプリ」で優勝したウエストランドの井口氏が「もうMー1に出場しなくてよいのでほっとしている」という類の発言をしたが、これも能動・受動の判別が難しい好例だ。「Mー1」にエントリーしたのは本人たちの意思だが、この発言のとおり、本音の部分では出場したくないという思いが見え隠れする。ウエストランド井口氏の心情も、能動でも受動でもない、どっちつかずの状態といえるだろう。

失われた態を求めて

 ここで登場するのが中動態である。能動でもなければ、受動でもない。「する」でもなければ、「される」でもない状態を表現する言葉はかつて古代ギリシアに存在していたが、歴史の流れの中で次第に姿を消したという。本書は気鋭の哲学者國分功一郎氏が「考古学者」よろしく、過去のさまざまな「痕跡」から中動態を現代に甦らせようと試みる。
 この世のすべての行為が能動と受動のどちらかに当てはまると自明視されているが、果たして本当にそうだろうか――。國分氏の議論はこの常識を疑うことから始まる。
 本書が射程に捉える学問はきわめて広い。古代ギリシア哲学から、一般言語学、政治哲学、現代思想アリストテレスに始まり、バンヴェニストアレントアガンベンハイデガードゥルーズスピノザ……。ありとあらゆる先人たちの思索を紐解きながら、中動態という言語を現代に甦らせる。
 それゆえに著者の考察は極めて難解だ。一読しただけで咀嚼し、血肉化し糧にすることは難しいだろう。それでも本書の議論に引き込まれてしまうのは、著者が誘う「言語をめぐる旅」をともにするなかで、ロマンやノスタルジーに近い感情が芽生えるからに他ならない。そして旅を終えた瞬間に生じたのは、中動態について「なんとなくわかった」という雑感。そして、この世の中には能動と受動ではうまく説明できない、中動的なものであふれているという発見だった。
 一見、素朴な発見のように思えるが、世界を見渡す視野は格段に広がったように感じる。

【書評】太平洋戦争の「ポイント・オブ・ノー・リターン」――『ミッドウェー海戦』

 東京から東に4100キロ。北太平洋中部に位置するミッドウェー島は、1年中気温が暖かく湿度が高い海洋性気候の島である。毎年約200万もの海鳥や渡り鳥が巣作りのために同島を訪れ、特に11~7月にかけてはアホウドリの一種であるコアホウドリクロアシアホウドリが多く飛来。冬にかけてタマゴを生み、ふ化させ、夏ごろに巣立っていくそうだ。絶滅危惧種のハワイアンモンクアザラシ、アオウミガメ、ハシナガイルカなどさまざまな海洋生物も、同島付近で多く確認されているという。

 そんな自然豊かな海域で血みどろの戦いが繰り広げられたのは今から80年前の6月のこと。太平洋戦争のターニングポイントとして知られる「ミッドウェー海戦」で、日本側は赤城、加賀、蒼龍、飛龍の主力4空母と重巡洋艦1隻が沈没。航空機約300機を喪失するなど手痛い損害を被った。一方の米軍は空母1隻沈没、航空機150機の喪失にとどまり、戦争の主導権を連合国側に渡してしまうこととなった。

慢心が戦勢を決定づける

 当時の戦勢を簡単に追ってみよう。1942年6月5日、第一次攻撃隊がミッドウェー基地を攻撃。その後、同隊から「第二次攻撃ノ要アリ」との報告を受けた南雲艦隊は、ミッドウェー付近に米軍機がいないと判断。「本日敵機動部隊出撃ノ算ナシ 敵情特ニ変化ナケレバ第二次攻撃ハ第四編制ヲ以テ本日実施ノ予定」との指令を発信するとともに、航空機の装備を対艦船徹甲爆弾(魚雷)から陸用爆弾への積み替えを指示した。ミッドウェー基地を再び攻撃するためだ。

 ところが、その後、零式水上偵察機「利根」の四号機から「敵ラシキモノ一〇隻見ユ」との報告が届く。さらに続けて、「敵ハ其ノ後方ニ空母ラシキモノ一隻伴フ」と……。米空母が日本艦隊目掛けて発進していたのである。

 利根四号機からの報告を受信した南雲艦隊はミッドウェー島への第二次攻撃を中止。航空機の装備を再度魚雷への積み替えを指示した。前述のように、直前に魚雷から陸用爆弾への積み替えを命じていたため、各空母では再度の装備転換を迫られたのである。その後、南雲艦隊は攻撃隊の発進を優先するか、第一次攻撃隊の空母への収容を優先するか――の2択を迫られ、攻撃隊の収容を優先したわけだが、これにより攻撃隊の発進が遅れてしまう。その間に米航空機が日本艦隊を襲撃。蒼龍、赤城、加賀、そして飛龍が米軍の攻撃を受け戦闘不能に陥ってしまう。これでミッドウェー海戦の勝敗が決し、以後日本は太平洋戦争で劣勢をしいられることとなった。

 なぜ日本はこの戦いに敗れてしまったのか。さまざまな要因が挙げられるだろうが、南雲艦隊の慢心が戦況に与えた影響は大きい。特に、第一次攻撃隊の報告後、「本日敵機動部隊出撃ノ算ナシ」と決めつけたことは"驕り"に他ならない。開戦以来連勝が続き、ひたすら勝利を手にし続けた事実が、「米空母部隊は出動してこない」という誤った判断をもたらしたのだ。歴史に"if"はあり得ないが、もしあの時、攻撃隊を先に発信させていたら、航空機の一部を魚雷装備のまま待機を命じていたら、戦闘の行方は変わっていたかもしれない……。

 われわれがこの戦いから学ぶことがあるとすれば、「驕慢」してはならない、に尽きるだろう。驕れる平家は久しからず、というわけだ。

 ちなみに、この「……出撃ノ算ナシ」という一文は、ミッドウェー海戦の一挙一動を記した『第一航空艦隊戦闘詳報』からも削除され、長きにわたって秘匿されたという。日本にとっても都合の悪い事実だったわけだ。

 

【書評】南の孤島「硫黄島」での決戦録――『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』

 東京都心から南へ1200キロ、小笠原諸島の南端に位置するのが硫黄島である。島の面積はわずか22キロ平方メートルで世田谷区の半分にも満たない。天然記念物の小笠原諸島産陸貝やオガサワラオオコウモリアカガシラカラスバトが生息するほか、植物ではガジュマルやクジャクサボテン(月下美人)、果物ではパパイヤ、パイナップル、バナナ、オレンジ等の生育がみられている。

 そんな「南国」の風情漂う硫黄島で惨憺たる戦闘が繰り広げられたのは、太平洋戦争末期の1945年のことだ。ミッドウェーでの敗北以降、日本の占領地が続々と米軍の手に落ちるなか、本土進攻を防ぐ最後の防波堤として白羽の矢が立ったのがこの硫黄島だった。

部下思いの一面も

 陸軍中将・栗林忠道硫黄島へ向けて出発したのは1944年6月8日のことである。栗林は陸軍将官としては珍しく"部下思い"で、入院した兵がいれば栗林みずから車を運転して見舞ったり、マラリアにかかった兵には氷を届けたりするなど目下の者にも気さくに接した。陸軍司令官というと服部卓四郎や辻政信牟田口廉也など独善的で上下の序列関係を重んじる軍人ばかりがクローズアップされるが、栗林のような物腰の柔らかい将官もいたのである。

 そんな栗林の柔軟さは作戦面にも表れている。例えば「水際作戦」の却下。島嶼防衛の戦法として伝統的に用いられてきたのが、舟艇で近づいてきた敵の「水上から陸上へと移る瞬間」を狙って集中的に攻撃する「水際作戦」だ。これは舟から陸に降りる瞬間がもっとも無防備で攻撃を与えやすいという理屈に立脚するものだが、米軍の偵察によってこの作戦が筒抜けとなっており、こと太平洋戦争においてはことごとく失敗に終わっていた。

 そこで栗林が考案したのが「水際作戦を捨て主陣地を海岸から離れた後方に下げる」という作戦だ。これにより米軍機の空爆や砲撃による殲滅を防ぐことができる。さらに、栗林は縦深陣地の構築による持久戦を想定。陣地を地下に作り全将兵を地下に潜って戦わせたことで、上陸前に米軍が硫黄島に加えた2万トンに及ぶ砲弾、爆弾の嵐もほとんど意味をなさなかった。このように水際作戦という伝統的戦法を早々に切り捨てたこと、そして縦深陣地による持久戦を志向したことで、ミッドウェーを機に米軍が攻勢に転じて以降、米軍の損害が日本軍のそれを唯一上回るに至った。

 とはいえ、時あたかも太平洋戦争末期。彼我の戦力さや兵站・補給の不足等から戦局はすでに不利に動いており、栗林以下硫黄島の兵士たちは決して制圧させまいと奮戦するも時すでに遅し。3月5日、部隊参謀長名で打電された大本営あての戦訓電報の末尾には以下のような文章が書かれていたという。

敵の制空権は絶対かつ徹底的にして一日延1600機に達せしことあり。未明より薄暮まで実に一瞬の隙なく、2、30ないし100余の戦闘機在空し、執拗なる機銃掃射か爆撃を加へ、わが昼間戦闘行動を封殺するのみならず敵はその掩護したに不死身に近き戦車を骨幹とし、配備の手薄なる点に傍若無人に滲透し来たり。我をして殆ど対策なからしめ、かくして我が火砲、重火器ことごとく破壊せられ、小銃及び手榴弾をもって絶対有利なる物量を相手に逐次困難なる戦闘を交へざるを得ない状況となれり。以上これまでの戦訓等にては到底想像も及ばざる戦闘の生き地獄なるを以て、泣く言と思わるるも顧みず敢て報告す。

 そして最後の時、栗林は次のような句を遺した。「国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」。

 散るぞ「悲しき」の6文字に栗林の忸怩たる思いが凝縮されているように思う。

 

【書評】細菌兵器に手を染めた陸軍軍医の横顔――『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』

 1946(昭和21)年5月3日に開廷した極東国際軍事裁判、通称「東京裁判」では戦争犯罪を行ったとされる軍人、政治家28人がA級戦犯として起訴された。太平洋戦争開戦時の首相・東条英機や陸軍の重鎮である荒木貞夫国際連盟脱退を表明した松岡洋右など、いずれも日本を惨憺たる戦いに巻き込んだ当事者ばかり。このうち病死や精神障害による訴追免除者を除く25人に有罪判決が下され、うち7人が絞首刑となった。

 彼らは戦勝国11カ国で構成される裁判官によって裁かれたが、一人、重大な戦争犯罪を犯したにもかかわらず、GHQとの取引によって訴追を免れた軍人がいる。石井四郎――日本の細菌戦研究を指導した陸軍軍医だ。

 石井が生まれたのは日本で天然痘が流行した1892(明治25)年。28歳で京都帝国大学医学部を卒業すると、近衛歩兵第三連隊、京都帝国大学大学院等を経て陸軍軍医学校防疫研究室に配属。コレラ赤痢チフスから守るための細菌ろ過設備(「石井式濾水機」)の開発に従事した。時あたかも満州事変が勃発した頃。戦場では実際の戦闘よりも感染症による死者数が上回っていた。感染症対策は陸軍の目下の課題だったのである。そのため、1936年に「関東軍防疫部」が編成。味方の兵士の感染予防を促すと同時に、細菌戦の実施に向けて本格的に計画を練ることとなった。その陣頭指揮を執ったのがほかでもない、石井である。

GHQとの陰謀的取引

 1940年以降、石井部隊(731部隊)は細菌戦に向けた種々の実験を行うようになった。細菌兵器の実用性を試すため、中国軍や米軍の捕虜を実験台にした。菌液を彼らに注射しわざと感染させ、その変化の様子を実験したのだ。

 細菌の撒布も行われた。例えば、雨下による菌液散布。雨天時に4000メートル以上の高度から細菌を含んだ液体を戦地に向けて撒くのである。ペストに感染させたノミ(ペストノミ)を戦地に散布することもあった。実際、40年9月18日から10月7日の間で計6回に及ぶ細菌戦攻撃が行われ、浙江省寧波、金華、玉山などの都市にペストノミやコレラ菌チフス菌の菌液を撒布した。この作戦の被害規模は1万人にのぼり、赤痢とペスト、コレラ患者を中心に1700人以上が死亡したという。

 このように731部隊は細菌兵器によって多くの兵士、民間人の命を奪ったのである。これはまさに「人道に対する罪」であり、この事実を知ったGHQも責任者である石井を東京裁判で裁くはずだった。しかし、すでに述べたとおり石井は訴追を逃れ、1959年に没するまでその生涯を全うした。

 なぜ石井は東京裁判で裁かれなかったのか。その理由はGHQ総司令官であるダグラス・マッカーサーにある。ソ連との冷戦をにらみ、米軍の軍備増強を図りたいなか、マッカーサーが目を付けたのが731部隊の細菌兵器。石井の研究成果を米軍が独占する見返りとして、石井以下731部隊の兵士は起訴を免れたのである。皮肉にも、細菌兵器のおかげ(せい)で石井は生き長らえることができたのだ。

 終戦後の石井は親や子供の行く末を案じ、宝くじの結果に一喜一憂する小市民的な一面をのぞかせるようになった。そこには、野心の赴くまま細菌戦研究に没頭した軍医の面影など一ミリもない。

 まるで人が変わったような石井の姿に触れるたび、「本当の悪は凡庸で思考停止的」というハンナ・アーレントの言葉を思い出す。

 

【書評】1945年8月15日の攻防――『日本のいちばん長い日』

 8月15日は言わずと知れた終戦記念日である。混迷を極める戦時体制にピリオドを打った節目の一日で、毎年この日が近づくとメディアは「凄惨な悲劇を風化させてはならない」と言わんばかりに、こぞって戦争特集を組む。

 とはいえ、その取り上げ方は「戦争を繰り返さないために、過去の歴史から何を学ぶか」にフォーカスし、この日の出来事をコンパクトにまとめて伝えがちだ。すなわち、8月15日は「日本がポツダム宣言を受諾した日」「『終戦記念日』として戦争と平和について考える日」として凝縮され、昭和天皇の聖断から玉音放送に至るまでのプロセスが詳報される機会は、きわめて少ないように思う。事実、79年前のこの日は、他の歴史的事象にも劣らない激動の一日であった。

 昭和天皇の〝聖断〟をもって無条件降伏を決定した日本政府だが、その後の閣議では早速暗礁に乗り上げた。降伏を日本国民に知らせる詔書玉音放送で語られる内容)策定である。終戦を報せる詔書である以上、文面や文章表現で閣議出席者や学者からの注文が相次ぐなど侃々諤々の議論を呼んだ。特に紛糾の様相を呈したのは1カ所――「戦勢日ニ非ニシテ」(戦局が日に日に悪くなっていく)というセンテンスだ。この文言をめぐり、阿南惟幾陸軍大臣東郷茂徳外務大臣・米内光政海軍大臣で、激しく意見対立した。

 米内が、戦争に敗れたという事実を漏れなく伝えるために、「戦勢日ニ非ニシテ」を用いるべきと言い出せば、阿南は「戦局必ズシモ好転セズ」(戦争に敗れたのではなく、戦局が好転しなかっただけ)とするべきであると応戦。幾多の激戦で命を落とした者、今なお異国の地で戦火を交えている者に〝栄光ある敗北〟を与えてやりたい。そのためには、負けを自ら進んで受け入れていると解釈できる「戦勢日ニ非ニシテ」ではなく、奮闘するも力が及ばなかった「戦局必ズシモ好転セズ」こそがふさわしい、と阿南は考えたのである。

 また、当時陸軍内には徹底抗戦を叫ぶ声も根強く、無条件降伏の撤回を目的に若手将校が武力行使する懸念があった。そこに、国家が自ら負けを認めるようなことを表にすれば、彼らはたちまちクーデターを決起する――阿南が文言の変更を主張し続けたのは、こうした抗戦派将校の動きを抑える意図も念頭にあったのだろう。一方の東郷・米内も折れずに「戦勢日ニ非ニシテ」を主張していたが、阿南の頑なな反対によって翻意。詔書には「戦局好転セズ」が用いられることとなった。

 結局、詔書案は7回も書き直され、削除カ所は23。その字数は101字にのぼる。一方、加筆が18カ所58字で、新しく書き込まれたものは4カ所18字。ちなみに、「戦局必ズシモ好転セズ」と決定した時にはもうすでに清書済みだったことから、完成した詔書の「戦勢日ニ非ニシテ」の部分を刃物で削り、その上から書き記したという。

 一方、阿南の心配をよそに、陸軍の青年将校らは着々とクーデターの準備を整えていた。中心人物は畑中健二少佐。ポツダム宣言を受諾し、日本国が連合国の隷属下におかれることは皇室、ひいては日本国家の形骸化を招く。国体を護持するにはなんとしてでも聖断を撤回させなければならない――畑中は同じ志を持つ青年将校と徒党を組み、政府の意向を覆すための軍事行動を企てるのだった。しかし、徹底抗戦が口端にのぼっていたのは主に若手の将校たちで、師団長、参謀長クラスになると「すでに聖断は下された」と徹底抗戦に否定的な者が多かった。

 そこで、畑中らは玉音放送を阻止すべく、昭和天皇の音声を収めた録音盤の奪取と宮城(皇居)の占拠を実行。天皇の側近らを宮城の地下に軟禁した。録音盤のありかを巡って一触即発の状況が続くなか、ある一人の人間が自刃したことで事態はやがて終息へと向かう。阿南惟幾陸相だ。8月15日午前5時、阿南は昭和天皇の放送を聞くことなく、大臣官邸で割腹自殺を図った。自室の机上には「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書が残されていたという。阿南の死で将校らは意気阻喪したのか、その後、東部軍管区司令官の田中静壹によってクーデター部隊が拘束。聖断の撤回がかなわないことを悟った畑中は、阿南と同様に玉音放送を耳にする前に宮城内で拳銃自殺を図ったという。8月15日午前11時のことである。その1時間後、無条件降伏の意向を伝える玉音放送がラジオで全国放送された。

 今年で戦後79年。わが身をもって戦いを体験した生き字引の多くが鬼籍に入るなか、過去の戦禍がもたらした悲惨さ、むごさを再確認する日として、終戦記念日の存在意義はますます重要になりつつある。そして、その背後には閣僚や将校らによる壮絶なドラマがあったことを、私たちは念頭に置くべきだろう。

 

【書評】日本はなぜ満蒙国境で敗走したのか――『ノモンハンの夏』

 ユーラシア大陸東部、中国とモンゴルの国境近くに、ノモンハンがある。見渡す限りの草原に、放牧された牛や馬が草を食む――まさに"牧歌的"という言葉を体現したかのようなこの土地で、惨憺たる戦闘が繰り広げられたのは今から82年も前のことだ。

 ノモンハンは当時、満州国とモンゴルの国境線が敷かれていたが、その線引きが不明瞭だったことから、満州国を後押しする日本軍(関東軍)とモンゴルを後押しするソ連軍でたびたび軍事衝突が発生。1939年5~8月にかけての「ノモンハン事件」も、ちょっとした小競り合いから、最終的に日本側の死傷者が約2万人、ソ連側の死傷者が約2万5000人にのぼる大規模な戦闘へと発展した。

 人的被害だけを見ればソ連軍がはるかに上回るものの、日本側は何ら芳しい戦果を得られていない。むしろ、第二十三師団の7割が壊滅状態に陥るなど多くの兵士が犠牲になり、軍事物資を必要以上に消耗してしまったことから、日本軍はノモンハン事件で"敗れた"とみるべきだろう。

 ノモンハン事件の敗北を決定づける要因は数あれど、最も影響が大きかったのはやはり「彼我の戦力差」であろう。日本軍が十一個師団、戦車200輌、飛行機560機を動員した一方、ソ連軍は三十個師団、戦車2200輌、飛行機2500機を動員した。特に、ソ連は航空機や戦車等の近代兵器を軸とした戦法を採用したのに対し、日本軍は対戦車戦闘に懐疑的で、軽量小型の戦車を量産し歩兵を直接支援しながら、車両性能を増強させる方針を取った。つまり、陸軍兵による白兵突撃を軸に、小型の軽量戦車で突破する作戦を立てていたのである。いくら歴戦の陸軍兵と言えども、鉄の塊が相手では歯が立たない。特に七月の戦闘では関東軍の死傷者数が4400人を超えたという。

過去に学ぶソ連、過去にこだわる日本

 圧倒的な戦力差が生まれた背景には、ソ連側の「過去の敗北に学ぶ」姿勢と、日本側の慢心がある。ソ連軍は日露戦争の敗北を受け、日本軍の戦術研究に精を尽くしていた。敗北から学び、新しい野戦形式を採用するなど、過去の失敗を次の戦闘に生かそうという方針がソ連軍にはあったのである。一方の日本軍は相変わらずの白兵銃剣主義。将兵の忠勇さと、敵を厭わず突進する精神力が帝国陸軍の伝統であると、誰もが信じて疑わなかったのである。事実、太平洋戦争の終結まで陸軍兵は三八式歩兵中を携行していた。戦況や軍事技術の最新動向に目もくれなかったことが、事件の行方を決定したと言っても過言ではないだろう。

 関東軍の独断専行も見逃せない。事実、作戦計画の立案を担う参謀本部では、満蒙国境紛争について「事態不拡大」の方針を示していた。にもかかわらず、関東軍は強硬姿勢を。特に、現地で作戦指導を行った辻政信少佐は、本部に無断でソ連軍基地への空爆を実施したり、現地師団長の指揮権を無視して勝手に部隊を動かすなど、関東軍の指揮命令系統を混乱に陥れた。辻は常々「関東軍の伝統」という言葉を口にしており、この言葉を出されると誰も逆らえなかったそうだ。こういった中央との連携を怠ったり、独断専行による強硬姿勢もノモンハン事件では裏目に出たのである。著者も辻を「絶対悪」と評するなど、手厳しい。

 とはいえ、本書は関東軍の戦術・戦略を否定的な立場からレポートしており、著者の"アンチ陸軍"ぶりの強さは否めない。ノモンハン事件についてニュートラルな立場から検証するには、陸軍目線の書籍を渉猟する必要があるように思う。

 『ノモンハン秘史』や『潜行三千里』(ともに辻政信著)あたりが相応しいだろうか。