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【書評】気鋭の哲学者が誘う「言語をめぐる旅」――『中道態の世界 意志と責任の考古学』

 中動態。おそらく多くの人にとって耳なじみのない言葉だろう。端的に言えば「能動態」でも「受動態」でもない態のことだ。
 例えば、「謝る」は能動・受動のどちらに当てはまるだろうか。謝るという行動は、言うまでもなく謝罪の気持ちを自らの動作で表したものだ。それゆえに、一見すると能動的行為のように思えるが、もし当人に謝罪の気持ちが伴っていなかったらどうだろう。すなわち、「申し訳ない」とは言うものの、心の中では反省していないといった場合である。こうなると、謝るを一概に能動的行為と位置づけることは難しい。自分から進んで謝罪の気持ちを表明していないのだから。
 では、受動的な行為に当てはまるかというと、事はそう単純ではなさそうだ。謝るという行動を取っているのは自分自身に他ならない。つまり行動の出発点は自分にあるのだから、受動態とも言えないのである。このように能動と受動で区別してしまうと、「謝る」という行為を説明することは途端に難しくなる。
 卑近な例で恐縮だが、一昨年の「Mー1グランプリ」で優勝したウエストランドの井口氏が「もうMー1に出場しなくてよいのでほっとしている」という類の発言をしたが、これも能動・受動の判別が難しい好例だ。「Mー1」にエントリーしたのは本人たちの意思だが、この発言のとおり、本音の部分では出場したくないという思いが見え隠れする。ウエストランド井口氏の心情も、能動でも受動でもない、どっちつかずの状態といえるだろう。

失われた態を求めて

 ここで登場するのが中動態である。能動でもなければ、受動でもない。「する」でもなければ、「される」でもない状態を表現する言葉はかつて古代ギリシアに存在していたが、歴史の流れの中で次第に姿を消したという。本書は気鋭の哲学者國分功一郎氏が「考古学者」よろしく、過去のさまざまな「痕跡」から中動態を現代に甦らせようと試みる。
 この世のすべての行為が能動と受動のどちらかに当てはまると自明視されているが、果たして本当にそうだろうか――。國分氏の議論はこの常識を疑うことから始まる。
 本書が射程に捉える学問はきわめて広い。古代ギリシア哲学から、一般言語学、政治哲学、現代思想アリストテレスに始まり、バンヴェニストアレントアガンベンハイデガードゥルーズスピノザ……。ありとあらゆる先人たちの思索を紐解きながら、中動態という言語を現代に甦らせる。
 それゆえに著者の考察は極めて難解だ。一読しただけで咀嚼し、血肉化し糧にすることは難しいだろう。それでも本書の議論に引き込まれてしまうのは、著者が誘う「言語をめぐる旅」をともにするなかで、ロマンやノスタルジーに近い感情が芽生えるからに他ならない。そして旅を終えた瞬間に生じたのは、中動態について「なんとなくわかった」という雑感。そして、この世の中には能動と受動ではうまく説明できない、中動的なものであふれているという発見だった。
 一見、素朴な発見のように思えるが、世界を見渡す視野は格段に広がったように感じる。