【書評】南の孤島「硫黄島」での決戦録――『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』
東京都心から南へ1200キロ、小笠原諸島の南端に位置するのが硫黄島である。島の面積はわずか22キロ平方メートルで世田谷区の半分にも満たない。天然記念物の小笠原諸島産陸貝やオガサワラオオコウモリ、アカガシラカラスバトが生息するほか、植物ではガジュマルやクジャクサボテン(月下美人)、果物ではパパイヤ、パイナップル、バナナ、オレンジ等の生育がみられている。
そんな「南国」の風情漂う硫黄島で惨憺たる戦闘が繰り広げられたのは、太平洋戦争末期の1945年のことだ。ミッドウェーでの敗北以降、日本の占領地が続々と米軍の手に落ちるなか、本土進攻を防ぐ最後の防波堤として白羽の矢が立ったのがこの硫黄島だった。
部下思いの一面も
陸軍中将・栗林忠道が硫黄島へ向けて出発したのは1944年6月8日のことである。栗林は陸軍将官としては珍しく"部下思い"で、入院した兵がいれば栗林みずから車を運転して見舞ったり、マラリアにかかった兵には氷を届けたりするなど目下の者にも気さくに接した。陸軍司令官というと服部卓四郎や辻政信、牟田口廉也など独善的で上下の序列関係を重んじる軍人ばかりがクローズアップされるが、栗林のような物腰の柔らかい将官もいたのである。
そんな栗林の柔軟さは作戦面にも表れている。例えば「水際作戦」の却下。島嶼防衛の戦法として伝統的に用いられてきたのが、舟艇で近づいてきた敵の「水上から陸上へと移る瞬間」を狙って集中的に攻撃する「水際作戦」だ。これは舟から陸に降りる瞬間がもっとも無防備で攻撃を与えやすいという理屈に立脚するものだが、米軍の偵察によってこの作戦が筒抜けとなっており、こと太平洋戦争においてはことごとく失敗に終わっていた。
そこで栗林が考案したのが「水際作戦を捨て主陣地を海岸から離れた後方に下げる」という作戦だ。これにより米軍機の空爆や砲撃による殲滅を防ぐことができる。さらに、栗林は縦深陣地の構築による持久戦を想定。陣地を地下に作り全将兵を地下に潜って戦わせたことで、上陸前に米軍が硫黄島に加えた2万トンに及ぶ砲弾、爆弾の嵐もほとんど意味をなさなかった。このように水際作戦という伝統的戦法を早々に切り捨てたこと、そして縦深陣地による持久戦を志向したことで、ミッドウェーを機に米軍が攻勢に転じて以降、米軍の損害が日本軍のそれを唯一上回るに至った。
とはいえ、時あたかも太平洋戦争末期。彼我の戦力さや兵站・補給の不足等から戦局はすでに不利に動いており、栗林以下硫黄島の兵士たちは決して制圧させまいと奮戦するも時すでに遅し。3月5日、部隊参謀長名で打電された大本営あての戦訓電報の末尾には以下のような文章が書かれていたという。
敵の制空権は絶対かつ徹底的にして一日延1600機に達せしことあり。未明より薄暮まで実に一瞬の隙なく、2、30ないし100余の戦闘機在空し、執拗なる機銃掃射か爆撃を加へ、わが昼間戦闘行動を封殺するのみならず敵はその掩護したに不死身に近き戦車を骨幹とし、配備の手薄なる点に傍若無人に滲透し来たり。我をして殆ど対策なからしめ、かくして我が火砲、重火器ことごとく破壊せられ、小銃及び手榴弾をもって絶対有利なる物量を相手に逐次困難なる戦闘を交へざるを得ない状況となれり。以上これまでの戦訓等にては到底想像も及ばざる戦闘の生き地獄なるを以て、泣く言と思わるるも顧みず敢て報告す。
そして最後の時、栗林は次のような句を遺した。「国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」。
散るぞ「悲しき」の6文字に栗林の忸怩たる思いが凝縮されているように思う。