会社員ライブラリー

しがないサラリーマンの書評やエンタメ鑑賞の記録

【書評】青春小説の金字塔的作品――『ライ麦畑でつかまえて』

 J・D・サリンジャーは1919年、ニューヨーク州マンハッタンで生まれた。貿易で名をあげたユダヤ人の父と、結婚を機にユダヤ教に改宗した母の間に生まれた彼は、コロンビア大学で文学を学びながら創作活動を開始。早々から文才が開花し、彼の書いた短編作品が一躍文壇を席巻するも、42年第2次世界大戦に従軍。復員後は戦地での凄惨な体験がトラウマとなりスランプに陥るも、徐々に調子を取り戻し執筆活動を再開する。

  『ライ麦畑でつかまえて』は執筆再開後の1951年に発表された自身初の長編小説だ。欺瞞に満ちた社会に対する怒りを、素行不良で高校を退学になった少年ホールデン・コールフィールドが滔々と語るという内容で、今なお世界中で幅広い読者を虜にしている。

 これは2019年時点のデータだが、全世界での発行部数が6500万部を超え、現在も世界中で毎年25万部ずつ売れ続けているという(『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』より)。まさに青春小説を代表する一作と言っても過言ではない。

 一方で、反体制的なホールデンの行動・言動が教育上好ましくないと問題視する声も多かったようで、実際にカリフォルニア州教育委員会が本作を禁書扱いにしている。負の影響はこれだけにとどまらない。80年に発生したジョン・レノン射殺事件もそうだ。事件の実行犯であるマーク・チャップマンは、事に及ぶ直前、そして射殺後も現場に留まり本作を没頭するように読んでいたという。

 牧歌的なイメージを連想させるタイトルからは程遠い過激な内容(主張)は、良くも悪くも多くの読者に示唆を与えたのである。

多くの人間に共通する普遍的な経験

 ホールデンは社会や大人たちを「インチキ」と切って捨てる。両親にはじまり、学校の教師。クラスの中心人物。たまたま街ですれ違った見知らぬビジネスマン。社会に順応した人物であればあるほど、ホールデンにとって忌むべき対象となるのだ。反骨精神の原動力。それは思春期ゆえの過剰な自意識に他ならない。

 そしてそれは、多かれ少なかれ誰もが持っていた感情ではないだろうか。ホールデンの行為を「中二病」「若気の至り」と揶揄するのは簡単だが、その指摘はブーメランのごとく自分のもとに帰ってくるはずだ。

 とはいえ、ホールデンは社会に対して何か事を起こそうと画策していたわけではない。大人たちを「インチキ」と評論し、社会の欺瞞をグチグチと指摘するだけだ。あくまでも内省的な構えを貫くホールデンの姿を追うたびに、一人の人物が頭をよぎる。『人間失格』(太宰治)の主人公大庭葉蔵である。

 葉蔵もまた肥大化する自意識ゆえに社会に順応できなかった一人である。葉蔵は自分を偽り道化を演じることで社会に適合しようとしたが、結局精神的に追い込まれ、破綻してしまう。一方のホールデンは大衆に歩み寄ろうとする姿勢すら見せなかったが、社会に対する違和感を内省的に吐露するさま、そしてその結果訪れる結末は葉蔵とオーバーラップする。

 『ライ麦畑でつかまえて』と『人間失格』。作者も国籍も発表された時期も全く異なる2作だが、いずれも幅広い読者の心を掴んで離さないのは、多くの人間に共通する普遍的な経験――肥大化する自意識と挫折体験が等身大に描かれているからだろう。その意味でも、ホールデンも、葉蔵も、決してマイノリティーではない。

 

【書評】SFアニメの金字塔を読み解く――『攻殻機動隊論』

 折に触れて見直すアニメーション作品がいくつかある。その一つが『攻殻機動隊』だ。内務省にある首相直属の対テロ・防諜機関である公安9課。その現場指揮官で全身義体草薙素子を筆頭に、レンジャー出身で格闘戦を得意とするバトー、元刑事で生身の体を持つトグサ、彼女らを率いる荒巻課長などが中心となって、国を揺るがす巨悪に立ち向かっていく。そんな作品だ。

 持ち前の骨太なストーリー展開、そして洗練された映像美は多くのファンを魅了する一方、個々のエピソードはきわめて難解だ。それは、脳神経にデバイスを接続する電脳化技術が普及し、多くの人間が電脳を介してインターネットに直接アクセスできるという世界観もさることながら、シリーズを貫くテーマの広さが原因だろう。

 例えば、2004年に放送された『攻殻機動隊 SAC 2nd gig』一つとっても、サイバーテロ、要人暗殺、政治汚職、難民問題、核戦争……など、ストーリー内で提示されるトピックは数多い。かように、ディティールを細かく追うとかえって混乱しそうになる。

情報社会への憧憬、希望、そして挫折

 本書 『攻殻機動隊論』はそんな難解なシリーズ作品を一本ずつ分析し、物語に込められたメッセージやテーマを読み解いている。言うなれば『攻殻機動隊』の"参考書"だ。

 本書は大きく分けて第一部「超越と身体」、第二部「叛逆と体制」、第三部「真実と正義」の三つから構成されており、まず第一部では士郎正宗の原作(1989年)、そして押井守による劇場版『GHOST IN THE SHELL』(95年)を「超越」「身体」という二つのキーワードを軸に読み解いている。ここで言うところの「超越」とは観念的な世界、すなわち「サイバー空間」のことで、情報社会への想像力が掻き立てられる描写が随所に散りばめられている。

 特に『GHOST IN THE SHELL』が公開された95年は、阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件などの惨事が立て続けに起こった。と同時に、ウィンドウズ95が発売されるなどインターネットや情報社会への期待感が高まりつつあった時期でもある。未知のテクノロジーは新たなフロンティアを開くかもしれない――。そんな幻想にも似た希望が本作を貫いている。

 ストーリーのクライマックス、草薙素子が<人形使い>という「身体」を持たないハッカーと文字どおり「融合」し、ネットの海へと消えたように、人間もインターネットと融合し、新たな存在(作品の言葉を借りれば「上部構造」)にシフトしてネットの世界を自由自在に動き回れるのではないか――。原作そして『GHOST IN THE SHELL』はそんな未来をポジティブに夢想した作品と言えるだろう。

 続く第二部では押井の弟子にあたる神山健治による『SAC』シリーズ(『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』『攻殻機動隊SAC 2nd gig』『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』)を解説している。このシリーズが描いているのはサイバー空間を起点に大衆へと連鎖する社会運動の可能性、そして挫折だ。

 例えば、『STAND ALONE COMPLEX』(2002年)では、ネットは官僚や大企業の不正を暴く正義の力として機能していた。それが『SAC 2nd gig』(04年)になると排斥、そして対立の温床としての役割が目立ち始める。そして『Solid State Society』(06年)では、大衆のみならず政府や官僚といった「体制」側もネットを使って社会をコントロールしようと試みるさまが描かれていた

 インターネット黎明期には、人びとは理性的に対話をする「公共圏」がネット上に生まれるという論調もあったようだが、実際に起こったのは匿名掲示板を中心とする悪辣な書き込みや誹謗中傷だ。これはX(旧ツイッター)やヤフーコメント等に場所を移し、より先鋭化された形で今も繰り広げられている。SACシリーズが提起する問題意識は決して古びてはいない。

「未来に対する備えを与え、未来を創り上げようとした作品」

 そして第三部で扱われるのは10年代以降のシリーズ(『攻殻機動隊ARISE』『ゴースト・イン・ザ・シェル』『攻殻機動隊SAC_2045』)だ。これらの作品ではフェイクニュースや炎上、ナショナリズム、民主主義の問題といった昨今の事象をモチーフに組み立てられており、ポストトゥルース社会をサバイブするための想像力が刺激される仕上がりとなっている。

 このようにさまざまなクリエーターたちが、『攻殻機動隊』という作品を通して情報社会の希望や期待、そして挫折を描いてきた。そしてそれは、より良い未来を築く上での「想像力」を提供することにつながったと著者はいう。

技術的に変化し、人間も、アイデンティティも、文化も大きく変わっていき、生と死の感覚も変化していく未来は確実に訪れている。価値観も感覚も、政治行動も変化するだろう。『攻殻機動隊』がコンピュータやインターネットの発展と随伴しながら切り拓いた地平は、今なお私たちを触発し、未来に起こることへの心理的な備えを形作っている。(略)エンターテインメントやドラマを通じて学び、感じ、考えることで、多くの人々に未来に対する備えを与え、未来を創り上げようとした作品。それが、『攻殻機動隊』である。

 

 

【書評】一連のオウム真理教事件を再構成――『沙林 偽りの王国』

 1995年3月20日朝の通勤時間帯、営団地下鉄(現東京メトロ日比谷線丸ノ内線、千代田線の車両内にて猛毒のサリンが撒かれた。地下鉄サリン事件である。オウム真理教教祖・麻原彰晃の指示を受けた幹部構成員らが各線の車内でサリンを散布。乗客ら約30人がサリン中毒で死亡、6500人以上がサリン中毒症の傷害を負い、今も重篤な後遺症に苦しんでいる被害者も少なくない。
 
 本書はオウム真理教信者が起こした一連の事件を、主人公の医師や警察関係者を架空の人物に置き換えた「フィクション」として構成した作品である。が、それ以外はすべて事実に基づいている。

 本作は地下鉄サリン事件の1年前に発生した松本サリン事件で幕を開ける。94年6月27日、長野県松本市の裁判所職員宿舎ならびにその近隣にサリンを噴霧。8人が亡くなり600人が重軽傷を負った。事件の第一報を受けた九州大学医学部教授の沢井直尚は、被害者の病状や容体などから、すぐさまサリン中毒を疑う。サリンは第2次世界大戦前のドイツで、有機リン系農薬を製造する過程で発見された化学物質。生成には多くの薬剤と装置が必要となるため、何らかの組織的犯罪であると沢井はにらむ。

 事件の経過が明らかになるにつれ、沢井の疑惑は確信へと変わるが、当の長野県警理工学部卒業で化学薬品会社勤務という経歴を理由に、事件の被害者である男性を重要参考人として聴取する。自宅の家宅捜索も行われ、マスメディアもこの男性が事件に関与しているかのように報道。疑いの目は一気にこの男性に向くことになる。

 もちろんこの男性は被害者でしかないのだが、結局、疑いが晴れるきっかけとなったのが翌年初に山梨県上九一色村(現富士河口湖町)の教団施設での異臭騒ぎであり、身の潔白が完全に証明されるのは地下鉄サリン事件である。裏を返せば、地下鉄サリン事件が起こるまで、オウム真理教が一連の事件の当事者であることを追及できなかったのだ。

 もし松本サリン事件の捜査方針が間違っていなければ、オウム真理教の関与をもっと早く突き止めていたら、地下鉄サリン事件を阻止できたのではないか――。麻原の逮捕に際し、沢井はこう総括する。

フィクションだからこそ描けること

 冒頭に記したように、本作は事実をもとに構成した「フィクション」である。実際に、序文には「本作品は、当時の歴史的事実をもとに小説として再構成したフィクションであり、作中の主人公や同僚などはすべて架空の人物である」とある。

 なぜフィクションという構成を選んだのだろうか。「小説家だから」といえば元も子もないが、ドキュメンタリーとして執筆する選択肢もあったはずだ。ノンフィクションではなくフィクションでなければならない理由は何か――。

 これを考えるにあたり、参考となるインタビューがある。文春オンラインに掲載されている平野啓一郎氏と小川洋子氏の両芥川賞作家による対談である(平野啓一郎×小川洋子「フィクションだけが持つ力とは」文春オンライン)。この対談の中で、平野氏はフィクションの効能について次のように語っている。

小説にせよ映画にせよ、自分とはずいぶんと違う境遇の登場人物に、読んだ人や観た人が「自分のことだ」と共感する――フィクションはそもそもそういうものです。

 つまり、作中の事象を第三者ではなく当事者として捉えるには、フィクションという手法がもってこいなのである。

 ここまで来ると、本書の存在意義が鮮明に見えてくるのではないだろうか。すなわち、オウム真理教が引き起こした一連の事件を”自分ごと”として捉えなおすための一冊である、と。

 2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫の死刑が執行された。しかし、サリン中毒の後遺症に今なお苦しむ被害者も少なくない。そもそも、なぜ高学歴で将来を嘱望されていた若者が容易に洗脳され、凶行へと駆り立てたのか。この問題も究明できていないのである。

 本書を”自分ごと”として捉えなおすと、一連の事件はまだ決着がついていないという峻厳な事実に直面する。

 

【映画評】ポンコツアンドロイドが示唆する「人間とAIの共生」――『アイの歌声を聴かせて』

 気鋭のアニメーション監督・吉浦康裕氏は自身の作品を通して「人間とAIの関係性」に一石を投じている。

 例えば、同氏が原作・監督・脚本を務めた『イヴの時間』(2008年)は人間と人型ロボット(アンドロイド)の"共生"を模索した意欲作だ。本作は両者を明確な主従関係を通して表現しており、特に人間はアンドロイドをこき使う存在として描かれている。果たして「便利な道具」として扱われることだけがアンドロイドの存在価値なのか。人間がAIと共存するために必要な考え方とは――。

 本作『アイの歌声を聴かせて』は、そんな『イヴの時間』で掲げた問いを科学技術が進歩した現代風に再構築し、一つの答えを導き出している。

役に立たないアンドロイド

 AI研究者を母に持つサトミが通う高校に一風変わった少女・シオンが転入してくる。シオンは実はサトミの母によって作られたアンドロイドで、社会実装に向けたテストを兼ねて転校してきたのだ。学校で孤立しがちだったサトミは、天真爛漫なシオンに振り回されながらも徐々に周囲と打ち解け、本来の明るさを取り戻していく。

 人間はAIやロボットをとかく「役に立つもの」「生活を便利にしてくれるもの」として認識しがちだ。例えば、最近何かと話題の自動運転技術は人間から「車の運転」という負担を取り除くことで役に立っている。「アレクサ、〇〇して」と呼びかければ電話をかけたり音楽を流してくれるし、使い方次第では家電を操作できる。オフィス清掃や物流倉庫のピッキング、農産物の収穫などでも今やロボットが当たり前のように活躍している。このように、AIやロボットは生活の隅々に浸透しており、われわれの暮らしをより便利にしていることに疑いの余地はないだろう。

 一方、シオンの振る舞いは決してヒトの役に立っていない。柔道の練習用ロボットを暴走させる、クラスの王子様的存在の男子(ゴッちゃん)を誘惑しその恋人(アヤ)を勘違いさせる……など、むしろトラブルばかり起こしている。

 しかし、シオンの行動によって、サトミを取り巻く状況が好転していったのもまた事実だ。シオンが転入してくる前から仲たがいしていたゴッちゃん・アヤのカップルは今回の一件で仲直りし、無冠の柔道部エースは大会で初勝利を勝ち取る。険悪だったサトミとアヤの関係性も良好になり、ついにサトミはクラスでの居場所を見つけていく……。

 その中心にいるのがシオンであり、彼女が引き起こしたトラブルだ。まさに「災い転じて福となす」というわけである。

「存在を受け入れる」

 この「役に立たない」という価値こそ、『イヴの時間』で掲げた問い、すなわち「人間とAIが共存するために必要な考え方」につながってくる。つまるところ、人間とAIがうまく共生するには、存在そのものに価値を認める態度が重要なのだ。確かに「便利」「役に立つ」という物差しだけでみると、役に立たないロボットは人間からぞんざいに扱われたり、捨てられてしまう。実際に、『イヴの時間』ではオーナーから足蹴にされるアンドロイドや故障寸前で廃棄された旧型のハウスロイド(家事目的で作られたアンドロイド)にまつわるエピソードが描かれている。

 利便性という視点だけでみると、人間とAIの共存は程遠いというわけだ。

 「役に立つ」「立たない」という尺度でみるのではなく、存在そのものを受け入れる。これは科学技術が進歩し、AIやロボットがよりわれわれの生活に根づくであろう社会を生きていくうえで、肝に銘じておきたい考え方だ。

 

【書評】“二刀流”の著者が繰り広げる「医療ミステリー」――『白い夏の墓標』

 細菌学者の佐伯教授は、パリで開かれた肝炎ウイルス国際会議での研究発表後、米国陸軍微生物研究所の博士を名乗る老紳士から、ある研究者の死の真相を打ち明けられる。その研究者とは、佐伯が若手だったころに苦楽をともにした、同じ細菌学者の黒田武彦だった。「黒田はフランスのピレネーで自から命を絶った」。老紳士が語る真相は、「米国で事故死した」と聞かされていた佐伯を驚愕させる。

 フランスで夭折したはずの黒田が、なぜ米国で事故死したことになっていたのか。なぜ黒田は自ら命を絶ったのか――。佐伯はパリからピレネーの地に赴き、亡き友人の足跡をたどっていく。

 本作は作家で精神科医の帚木蓬生が1979年に発表した医療ミステリーノベルである。物語の大筋は、若き研究者の死の真相を、かつて同じ机を並べた佐伯教授が探るというもの。

 ウイルスの研究で顕著な成果を残し、米国陸軍微生物研究所にスカウトされた黒田が異国の地で見たものとは――。本作は医学研究の光と影、そして人間の業が如実に描かれている。

医学研究の光と影、人間の業

 本作の根幹にあるテーマは「職業倫理」である。「生命倫理」と言い換えてもよいだろう。

 医学の目的は人々の健康を維持し、疾病の予防・診断・治療に役立てるところにある。特に、本作のテーマである細菌研究で言えば、細菌の性質や機能、感染の仕組みなどを解き明かし、疾病の予防や制御、ワクチンの開発など、感染症の予測や予防、制御策の立案に役立てることが目的だ。もちろん、その果てにあるのは生命の維持と健康の増進である。

 黒田の信念もここにある。皮肉屋だが細菌研究に情熱を注ぐ黒田は、心血を注いで成し遂げた研究成果が認められ、米国陸軍微生物研究所に移籍する。日本とは比べ物にならないほど充実した施設で、四六時中細菌研究に没頭できる。

 黒田にとってこれほど恵まれた環境はない。しかし、作中で登場する黒田の手記からは、どこか不穏な境遇を読み取ることができる。

ぼくたちがやっていることは確かに、逆立ちした科学だ。だが、もっとも恐ろしいのは、まっとうだと思いこみ、また人からもそう信じられ、その実、逆立ちした科学ではないのか。

 本作の核心に迫るため、この先の展開を仔細に書くことは憚られる。ただ、一つだけ言えるのは、「逆立ちした科学」は何も医学だけに限らないということだ。電子工学、原子物理学、最近で言えばAI研究もそう。念頭に置くべきは「どの学問もありとあらゆる生命にとって倫理的であるべき」という信念ではないだろうか。

【書評】組織をうまく回す"たった一つのさえたやり方"――『とにかく仕組み化』

 著者の主張はとにかくシンプルだ。「組織が抱える課題の解決には『仕組み化』が役立つ――」。本書では、経営者やリーダーが「仕組み化」を進めるうえでのポイントを解説している。

 本書の特徴、それは凡百のビジネスフレームワーク本と一線を画しているところにある。組織の課題を解決する「仕組み」は数多く存在する。例えば、選択肢を3つのランクに分けて提示すると、間の選択肢が選ばれやすいという「松竹梅の法則」。デフォルトの選択肢を「はい/YES」にして、選んでほしい選択肢に他者を暗に促す「デフォルト変更」など。いわゆる「ナッジ」と呼ばれる行動経済学の理論が、ビジネスシーンで応用されつつある。

 もし、こうしたテクニックを期待して本書を手に取ったとしたら、おそらく拍子抜けすることだろう。前述したように、本書は単なるビジネスフレームワークの指南書ではない。あくまでも主眼は「仕組み」ではなく「人間」の側にある。

 著者が提示する答えは一つだけ。仕組み化とは「ルールを決めて、ちゃんと運営する」こと。たったこれだけである。

とにかく「明文化」

 仕組み化のポイントは組織運営に関するルールを明文化し、属人化を排するところにあると著者は言う。「社員の評価基準を明確にする」「部下に仕事を指示する際は具体的な期限を決める」「メールは3時間以内に返信する」など、ありとあらゆる行動にルールを設けるのだ。こうした動きは「社員を雁字搦めにしてしまうのでは……」とネガティブに捉える向きもあるだろう。が、「社員の責任と権限を明確化し、正しく平等に評価するにはルールを設けるほかない」と著者は示唆する。そしてそれが、特定の優秀な社員に依存せず、持続的に結果を残せるチームこそ優秀な組織づくりにつながるのだという。

「○○を達成すれば評価します」「○○に未達だと評価しません」と、「明文化されたこと」について指摘するだけです。逆に、「書いていないこと」で罰を与えたりしてはいけないのです。ルールにないことでは、絶対に厳しく指導しない。常に責めるのは「仕組み」の方です。そうすることで、「明文化されたルール」に価値が生まれます。

 どの組織にも、常に抜きんでた成果を挙げる優秀な社員が一定数存在する。ただ、その社員が今の職場に居続ける保障はどこにもない。特定の社員に頼りきりでは組織全体の成長が促されないし、その社員がいなくなれば、早晩業績は振るわなくなることだろう。こうした憂き目に遭わないためにも、ルールを明文化してきちんと運営する「仕組み」が必要なのだ。

 

【書評】ハライチ岩井が活字でラジオする!――『どうやら僕の日常生活はまちがっている』

 エッセイとはさしずめラジオのフリートークのようなものだと思う。
 いずれも日常生活で体験した出来事の一部始終を、自分自身の価値観や心の機微、想像、妄想を織り交ぜながら、時にユーモラスに、時に毒気満載で語りつくす。両者を隔てるのは記述か口述かの違いだけだ。

 ノリボケ漫才で一世を風靡したハライチの「ボケ」とネタ作りを担当する著者。露出の多い相方に比べて「じゃない方」のレッテルを貼られていた感があったものの、最近はラジオやバラエティー番組での活躍が目覚ましい。特に"腐り芸人"として芸能界や現代社会の慣習、風潮に鋭く切り込んでいく姿はとりわけ目を引くものがある。先月には結婚を発表するなど、今やテレビで頻繁に目にするようになった。

 本書では著者が「平凡な日常生活」で経験した出来事を、独特の感性から紡がれる「妄想」のフィルターを通して綴っている。そのさまは、さながら「ハライチのターン!」(著者がパーソナリティーを務めるラジオ番組)のトークコーナーだ。

著者の「構成力」「想像力」光る

 「地球最後の日に食べたいものは何?」という他愛のない会話を交わしたことは誰でもあるだろう。好物の話題を皮切りに先輩芸人からこう尋ねられた著者は考えを巡らせる。

〈この手の空想の質問に答えるのは僕も好きだ。しかしこの"地球最後の日に何を食べるか"という質問に対して、僕はいつも悩む。それは、もし地球最後の日が本当に来たとして『あぁ、もう今日で地球が終わってしまうんだ……。死ぬんだ……』と悲しみに打ちひしがれている時に、大好物であれ、鰻のような胃に重たいものを食べられるかということだ〉

 こうして「地球最後の日の食事情」というSFチックな妄想が幕を開ける。まずは場所の問題。地球最後の日は地球人全員の最後の日なので、そもそも飲食店が開いている可能性は低い。たとえ営業していたとしてもそんな店は多くないから、自ずと行列ができるだろう。行列に並んでいる最中に最後の瞬間を迎えたら、これほど虚しいことはない……。

 仮に今日が最後の日であるということを自分だけが知っていたらどうか。危機が迫っていることを他の人々に伝えるだろう。無論、周囲からは白い目で見られ、信じてもらえない。すると「本当に今日で滅びるのか?」と疑心暗鬼になり、好物でものどを通らなくなるだろう。やはり食べ物どころではない。

 そもそも地球滅亡の日に悠長に外食などできるはずがない。人々は暴徒化し、街はひどく荒れ果て、盗みや破壊行動が横行するなど危険な状態に陥る。安全なのは自宅だけ。そうすると、自宅で手軽に食べられるものがふさわしいのではないか――。
 こうして「地球最後の日に食べたいものは何?」という問いに一つの結論を見出した著者。他愛もない会話からストーリーを構築し、最後にしっかり「オトす」さまはさすがは芸人といったところだ。

 ハライチのネタには一般人が想像もつかないような展開をみせるものが多い。その核となっているのがネタづくりを担う著者の「構成力」や「想像力」だ。

 そんな思考の源泉を本書を通して垣間見たような気がした。