会社員ライブラリー

しがないサラリーマンの書評やエンタメ鑑賞の記録

【書評】息苦しい世の中を生き抜くには――『「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから』

 ネガティブな表題である。それゆえに、というか、だからこそ、著者が日々感じている息苦しさが、ストレートに伝わってくる。「思想」という言葉の高邁さと、「無駄にしんどい」という俗っぽい表現の落差もまた良い。本書に対する、良い意味での「敷居の低さ」を生み出している。

 2012年に大学を卒業してから一度も定職に就いた経験がなく、アルバイトやスペインでの「留学」を経て、現在は文筆業として活躍している著者。大学時代も不登校を経験するなど、いわゆる「社会のレール」に乗り切れない人生を歩んできた。本書の出発点は、そんな著者が自らの生活を通して抱いていた、形容しがたい違和感にある。

 そして、本書はそんな違和感を覚える人に向けて編まれている。

 著者の言う「おりる」とは、「社会が提示してくるレールや人生のモデルから身をおろし、自分なりのペースや嗜好を大事にして生きる」という考え方だ。これは個の尊重という単純な話ではない。「おりる」という考え方を、著者の言葉を借りて敷衍するならば、「この社会で『普通』に生きようとすると個人にふりかかってくる、さまざまな重圧や誘導とうまく距離を取り、時にはそれらを強くはねのけ、どう自分なりに無理なく生きていく」ことを実践する、挑戦的な営みと解釈できるだろう。

後ろめたさへの処方箋

 なぜ挑戦的なのか。それはこの現代社会において、「自分なりのペースや嗜好を大事にして生きる」ことが困難を極めるからだ。「自分らしく」「無理なく」生きるなんて、言葉にするのは簡単だが、いわゆる伝統的な価値観が社会を覆っている限り、その行動にはどこか後ろめたさがともなってしまう。著者の言う「おりる」を実践するには、相当なエネルギーが必要なのである。

 最近は「多様性」を旗印に、さまざまな価値観が尊重される世の中になってきている。が、それでも、大学を卒業して一流企業に就職し、パートナーとの縁に結ばれ、子宝に恵まれる……という「理想のライフステージ」が称揚される風潮は根強い。だからこそ、その流れに乗れなかった者は、(自意識過剰な側面もあるとはいえ)何かしらの「生きづらさ」的な感情を抱いてしまうのだ。

 これは著者自身も痛感していることだと思う。著者自身、自らの経歴を卑下しているわけではないが、「社会のレール」から外れた生き方に後ろめたさを感じていることは、本書の端々に表れている。だからこそ、さまざまな映画や文学作品を頼りに、社会のレールからの「おり方」を模索したり、「おりられなさ」を直視したりすることで、「おりる」ことの可能性を追究してきたのではないだろうか。例えば、著者は朝井リョウの作品群から「社会のレールからおりることの難しさ」を見出し、そのうえで颯爽と「おりる」ための術について検討している。

 このように、本書では、「生きづらさ」から距離をとる=「おりる」ことについて、ありとあらゆる側面から考察されている。社会のレールからおりることは、そう簡単にできることではない。それに、伝統的な価値観に違和感を覚えていないのなら、「おりる」必要はないかもしれない。それでも、「おりる」という選択肢を頭の片隅に入れておけば、日々の生活で感じるプレッシャーが少しは軽減されるのではないだろうか。

【アニメ】人生はどこまで「喜劇」か――『変人のサラダボウル』

人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。

チャールズ・チャップリンの言葉)

 『変人のサラダボウル』は語り口こそ軽妙だが、登場人物を取り巻く状況は決して穏やかではない。

 祖国を追われ、日本の岐阜県に転生した異世界の皇女サラ・ダ・オディンと、彼女の側近である女騎士リヴィア・ド・ウーディス。転生後、サラは私立探偵の鏑矢惣助と、リヴィアはホームレスの鈴木と生活を共にすることになる。争いに巻き込まれ、見知らぬ世界での生活を余儀なくされるという流れは、字面だけを追うととりわけシリアスな印象を受ける。

 本作では、そんな彼女らを筆頭に、不穏な印象やバックグラウンドを持ったキャラクターが次から次へと姿を現す。特筆すべきは、その全員が前向きかつ逆境を逆境と捉えない、良い意味で鈍感なマインドを持ち合わせていることだ。

 もちろん、その度合いにはグラデーションがあるものの、こうしたキャラクターが勢ぞろいしているところに、本作がコメディーとして成立している所以がある。

不穏な事情を持つキャラクターたち

 例えば、サラは日本に転生する前に父親を亡くしているのだが、すぐさま日本での生活に順応し、惣助の助手として探偵業のサポートに努める。過去を引きずることなく、むしろ、日本で暮らすことを肯定的に捉えている。祖国はもとより、離れ離れになったリヴィアを偲ぶ素振りはあまり見せていない。

 そんなサラと探偵の仕事を通して仲良くなった永縄友奈も、サラと同様に父親を亡くし、さらに学校で酷いいじめを受けていた。友奈は惣助の手を借りながらいじめを告発するのだが、結局クラスでの居場所をなくして転校を余儀なくされる。さらに転校先でもクラスメイトのいじめを目撃。過去の経験を生かし、いじめっ子を撃退することで、探偵業へのあこがれに目覚めていく。

 サラも友奈も、2人とも自らの境遇を悲観していないし、不幸だとも捉えていない。サラは岐阜での日常生活を通じて交友関係を広げ、友奈は果敢にもいじめっ子と闘うことで未来を切り開いた。「災い転じて福となす」とはまさにこのことで、トラブルを人生の糧としていったのである。

 一方のリヴィアも、ホームレス生活を強いられるばかりか、チンピラのタケオに騙されて違法な風俗店で働かされたり、転売行為の片棒を担がされたりと、転生して以降ろくな目に遭っていない。詳しくは後述するが、作品を通して最も多くのトラブルに巻き込まれているのはリヴィアだと言っても過言ではないだろう。

 しかし、リヴィアもサラや友奈と同様に、自分の置かれた状況を不幸だとは微塵も思っておらず、良い意味での無邪気さ、鈍感さで迫りくる危機をのらりくらりとかわしていく。

 リヴィアは、騎士としての気品と矜持を持った高貴な側面と、岐阜の生活を通じて堕落していく怠惰な側面が共存しており、このギャップが本作の面白さを引き立たせる隠し味として、絶妙に利いているのである。

 そんなリヴィアの周辺も穏やかではない。カルト教団の教祖である皆神望愛は言うまでもなく、違法なアルバイトを斡旋してくるタケオに、そのアルバイト先で知り合ったプリケツ(弓指明日美)。特に、プリケツはバンド活動に精を出しており、活動によって生じる支出を賄うために、違法なアルバイトでお金を稼いでいた。また、プリケツは家出中の身で、実家との関係が良くないこともリヴィアとの会話のなかで匂わせるなど、家庭事情の複雑さが垣間見える。

 また、リヴィアが日本で最初に出会った鈴木も、元々は作家として活動していたが誹謗中傷や対人関係でのトラブルに巻き込まれ、社会生活に絶望。岐阜でホームレス生活を送っていた。結局、鈴木はリヴィアの逞しさに触れるなかで執筆意欲を取り戻し、東京に戻って捲土重来を図るわけだが、鈴木というキャラクターからは、都会の競争生活に疲弊し、社会のレールから外れてしまった人間の悲哀が伝わってくる。

当事者は悲劇、俯瞰者は喜劇

 いじめ問題にカルト宗教、ギャンブル、競争社会、性接待に転売騒動……と、『変人のサラダボウル』という作品を概観したとき、社会問題として語られる要素がいたるところに散りばめられていることに気づく。これらは作品のモチーフとして単独で扱えるくらいセンシティブな話題だ。

 その一方で、本作はコメディータッチの作風が持ち味だ。前掲の社会問題などどこ吹く風のごとく、キャラクターたちが姦しく岐阜の街を動き回っている。そんな本作を注視するなかで、ある喜劇俳優箴言が私の脳裏をよぎった。冒頭に引用したチャールズ・チャップリンの言葉である。

 この言葉の捉え方は多岐にわたると思うが、もっとも市民権を得ている解釈としては、「同じ出来事でも立場や見方次第で悲劇にも喜劇にもなりうる」というものだろう。当事者からすれば悲劇に見えていても、他者からすれば喜劇に見える――ということだ。

 チャップリンの喜劇作品の特徴もこの点にある。すなわち、悲劇や社会風刺の中に喜劇要素を織り交ぜることで、見る者に滑稽さが伝わるよう物語が構築されているのである。そしてそれは、物語の登場人物にとっての悲劇が救いへと昇華する効果を生み出しているのだ。

 そういった意味でも、冒頭のチャップリンの言葉は、本作の勘どころを、いみじくも突いているように感じる。すなわち、『変人のサラダボウル』という作品において、各キャラクターにとっては悲劇のような出来事も、視聴者である私たちからすれば喜劇と捉えられるように、ストーリーが演出されているのだ。

 とりわけリヴィアを中心に巻き起こる出来事は悲劇性と喜劇性が両立している。

 皇女サラを守るべく日本に転生するも、サラとは離れ離れになり、ホームレス生活を送る羽目になる。その後、違法風俗店で働かされるなど紆余曲折を経て、サラと再会。一度は惣助の探偵事務所で雇われるのだが、仕事ができないことを理由に解雇され、ホームレス生活に逆戻りしてしまう。

 その後は望愛と共同生活を送るなかで、パチンコやパチスロ、競馬といったギャンブルにのめりこんだり、またもやタケオにそそのかされて転売ビジネスに巻き込まれたりと、堕落した日々を過ごす。そんななか、プリケツや望愛とバンド「救世グラスホッパー」を結成。見事全国ツアーを成功させ、メジャーデビューを果たすのだが、最終回でまたしてもリヴィアに悲劇が起こる……。

 といったように、リヴィアの身に起こる出来事はどれも悲劇的だが、視聴者である私たちはそれを喜劇のように受け止めてしまう。それは前述したように、リヴィアが良い意味で鈍感で前向きなキャラクターとして描かれているからにほかならない。

 いかなる悲劇に直面しても決してヘビーな展開にならず、むしろその危機を軽やかにかわし、バッドエンドを回避する。鈍感力と前向きさに端を発するドタバタ劇に、私たち視聴者は思わず笑みをこぼしてしまうのだ。

 悲劇的な出来事をモチーフにしながらも、その中に喜劇的要素を織り交ぜることで、全体として滑稽な印象を与える。これによって、物語の当事者であるリヴィアとその周辺にある種の救いのような効果をもたらす。『変人のサラダボウル』の、とりわけリヴィアを軸としたストーリー展開は、チャップリンの喜劇作品と通底しているのだ。

  『変人のサラダボウル』の面白さは、「人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇」というチャップリンの言葉に表れているように、一つの出来事を悲劇と喜劇、両面から読み取れるように描いていること。また、悲劇的な出来事、特にリヴィアの周辺で巻き起こる悲劇に喜劇要素を見出すことで、救いのある物語として昇華したところにある。

 

■作品概要

『変人のサラダボウル』

原作:平坂読小学館ガガガ文庫」刊) 

キャラクター原案:カントク

監督:佐藤まさふみ

シリーズ構成:平坂読、山下憲一

キャラクターデザイン:福地和浩

制作スタジオ:SynergySP、スタジオコメット

放送時期:2024年春


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【書評】批評とは「思考を深めること」――『批評王 終わりなき思考のレッスン』

 大胆不敵なタイトルである。「批評」の「王」。自らの著書に「王」という言葉を冠するなんて、並大抵の度胸ではできない。もちろん、著者は文筆家・批評家として十分すぎるほどの実績を誇っているわけで、このタイトルもうべなるかなと思う。

 そう思って「前書き」に目を移してみると、そこには次の文章が書かれてあった。

〈本書の題名「書評王」は一種のアイロニカルなジョークとして受け取っていただきたい。私は自分のことを「王」だなどとはもちろん思っていないし、(略)誰かにそう思われているのでもないことは重々承知している。〉

 ……すべては冗談だったのである。

 ただ、内容は批評本の「王」にふさわしく、著者のテリトリーである音楽から文芸、アート、映画、演劇、思想、漫画、ライトノベルまで、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)から涼宮ハルヒまで、ありとあらゆる芸術作品を縦横無尽に語りつくしている。全525ページ。厚さ3.5センチ。なんとボリューミーなことだろう。多彩な作品の見所や勘所を饒舌に語りまくるさまは、淀川長治宇多丸(RHYMESTER)の映画評や佐久間宣行のオールナイトニッポン0を彷彿とさせる。

 見知った作品は新たな着眼点を、初めて触れる作品は概略や魅力を、ロジックとレトリックとボキャブラリーを駆使して論じてみせる。ジャンルレスに繰り広げられる批評の営みは、斯界のトップでなければできない為業だ。

  「批評王」の看板に偽りはないので、そこはご安心いただきたい。

批評=思考のプロセス+思考した結果

 もう一つ、批評の効能を挙げるとすれば、それは「思考を深めること」にある。

 そもそも批評とは何か。著者の言葉を敷衍するなら、それは「思考のプロセスと、その結果の集合体」である。つまるところ、批評対象について思考した軌跡を文章などで展開することと言えよう。

 ここには相対的な価値判断はなく、「ここにこれがある」という発見と、「それは何をしている」というメカニズムの解明の二つを目的に駆動している。「おもしろい」や「素晴らしい」といった価値判断はただの感想でしかない。批評の本質は判断ではなく発見にあり、発見を促すには思考を巡らせるほかないのだ。そういう意味では、本書の副題にある「思考のレッスン」は言いえて妙である。

 批評という営みを通じて鍛えた思考力は、ありとあらゆるスキルを育むことだろう。それは情報の真贋を見極める目利き力かもしれないし、組織の課題を明らかにする課題発見力かもしれないし、はたまた別のスキルかもしれない。

 いずれにしても、批評は何も批評家だけに求められるものではなく、あまねく人々の人生に効く営みなのである。

 

【アニメ】「正義」と「悪」の捉え方を組みなおす――『戦隊大失格』

 1975年放送の『秘密戦隊ゴレンジャー』を皮切りに、現在までに48の作品が制作されている「スーパー戦隊シリーズ」。作品ごとにモチーフや作風の違いはあるが、いずれも男女複数人で構成される戦隊ヒーローが、社会を脅かす悪の組織と戦うという展開が代々踏襲されている。

 約半世紀もの間、こうした勧善懲悪の物語が支持され続けているのはなぜか。それは、正義のヒーローが悪を懲らしめるというストーリーが、(特に幼少期の)視聴者の爽快感やカタルシスを喚起する最も大きな要素であるからに他ならない。スーパー戦隊シリーズでは「正義/悪」「ヒーロー/悪」「味方/敵」といった二項対立の構造が時代を超えて脈々と受け継がれている。

 そして、こうした構造を、いわゆる戦隊モノのフォーマットを用いて「脱構築」しようと試みているところに、『戦隊大失格』の面白さがある。

「正義」と「悪」を兼ね備える

 かつて地球侵略をたくらむも、竜神戦隊ドラゴンキーパー(大戦隊)に討伐された怪人軍団。大戦隊に「毎週日曜日、地上に侵攻し敗れる」という秘密の協定を結ばされて以来、13年の長きにわたってやられ役に徹していた。

 そんな抑圧された生活から脱却し、大戦隊への復讐を成し遂げるべく反旗を翻したのが怪物軍団の下っ端戦闘員Dである。Dは持ち前の「ヒトへの擬態能力」を駆使し、大戦隊の瓦解のために暗躍する――これが、本作の概略だ。

 悪の組織の、それも実際の戦隊作品では一介のモブキャラでしかないヒラの戦闘員が、正義の象徴である戦隊側に歯向かうという設定の時点で、まずひと工夫凝らされている。が、それ以上に斬新なのは大戦隊の描かれ方である。市民の平穏な日常生活を守り、周囲から憧れのまなざしを注がれる大戦隊/ドラゴンキーパー。その実態はお世辞にも「正義の味方」とは言えない、欺瞞にまみれた極めて利己的で排他的な組織だった。

 特に、その中枢にいるレッドキーパーは、他者に対して平然と暴力を働く、乱暴狼藉の極みのようなキャラクターで、なかでも戦闘員Dの反逆を理由に、協定を素直に順守している他の怪人たちに圧力をかけるさまは、正義のヒーローの振る舞いと言えるものではない。むしろ、下請けの中小企業に過剰な値下げや取引の打ち切りを要求する大企業のような、弱い立場に対して強権を行使する悪役に映る。

 こうしてみると、プロットの時点ですでに「正義」と「悪」が目まぐるしく反転していることに気づくだろう。弱い立場にある怪人を抑圧する大戦隊。現状の体制に抗い、下克上をもくろむ戦闘員D。字面だけを追えば、怪人側に「正義」や「ヒロイック」な面を、大戦隊側に「悪」や「敵」としての要素を感じざるを得ない。

 とはいえ、怪人軍団も、もともとは世界征服をたくらみ、地球侵略を図ったれっきとした「悪」だ。実際に、戦闘員Dは世界征服を諦めてはいないし、ある怪人軍団の幹部の生き残りは、大戦隊のメンバーを完膚なきまでに蹂躙している。こうした存在に制裁を加えるのは、ヒーローとして当然のことではないだろうか。

 つまるところ、怪人軍団も大戦隊も「正義」の要素を持つと同時に、「悪」の要素を備えているのだ。

正義は「わたしたち」の中にある

 では、この両者を分かつ基準は一体どこにあるのか。「正義」と「悪」の二面性について興味深い指摘をしているのが、東映のプロデューサーである白倉伸一郎である。『超光戦士シャンゼリオン』『仮面ライダー555』『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』など、数多くのヒーロー作品を輩出してきた白倉は、自著『ヒーローと正義』(子どもの未来社)のなかで次のように述べている。

ある対象を〈悪〉とするのも〈ヒーロー〉とするのも、「わたしたち」を中心軸とした世界観の問題である

白倉伸一郎『ヒーローと正義』子どもの未来社

 ポイントは、わたし“たち”と複数形で表現しているところにある。すなわち、「正義/悪」の判断基準は個人ではなく、「わたしたち」と表現できる複数形――共同体の価値観に左右される、というわけだ。白倉は同書で、童話『泣いた赤鬼』や『激走戦隊カーレンジャー』をヒントに、赤鬼や宇宙暴走族ボーゾック(カーレンジャーの敵対怪人)の幹部が、なぜ「正義」側の人間たちに受け入れられたかについて解説している。掻い摘んで説明すると、赤鬼もボーゾックの幹部も、最終的には人間の側に恭順の意を示したことで、人間にとって「わたしたち」と括れる存在となった。このことが、鬼や怪人が人間側の一員として受け入れられた要因だという。

 『戦隊大失格』の話に戻ろう。市民が大戦隊を「正義」と捉えているのは、ともに天ノ川市民という「わたしたち」で括れる存在だからだ。同じ地域社会を構成する「わたしたち」の立場からすれば、大戦隊と対立する怪人軍団は「悪」であり、「わたしたち」の代表である大戦隊に打ちのめされるべき敵にほかならない。市民が大戦隊に声援を浴びせ、その挙措進退にカタルシスを覚えるのは、天ノ川市という同じ共同体に属しており、ともに「わたしたち」という一人称複数代名詞で括れる点にあるのだ。

 一方、戦闘員Dの「正義」は怪人側にあり、「悪」は大戦隊側にある。改めて説明するまでもないことだが、それは、怪人軍団が戦闘員Dにとっての共同体(わたしたち)だからだ。 

 訓練生である桜間日々輝の「正義」もまた、共同体に大きく影響されている。幼いころの日々輝にとって、「正義」は「人間も動物も怪人も、命は平等に存在する」「大戦隊が武装しているから、怪人も暴力を行使せざるを得ない」という両親の価値観の影響を受けて形成されている。これまで述べてきたことからも分かると思うが、こうした怪人寄りの正義観は、桜間家という共同体を通じて培われたと言っても過言ではない。

 その後、怪人の襲来で両親を亡くした日々輝は大戦隊の一員となり、憧れのレッドキーパーのように「怪人を討伐する」という正義観に芽生えるのだが、次第に大戦隊という組織の欺瞞を感じるようになり、大戦隊への復讐に燃える戦闘員Dに協力するようになる。それは日々輝と戦闘員Dが「わたしたち」の関係でつながったからに他ならない。このように、日々輝の「正義」は両親・大戦隊・戦闘員D――と身を寄せたり、新たに構築した共同体によって、形を変えてきているのだ。

 ここから導き出せる結論は、「正義」とはある対象や行為を共同体の内側(わたしたち)から見たものであり、その「正義」を脅かす存在が「悪」になる、ということ。共同体の数だけ「正義」が存在し、また「悪」も存在する、ということ。そして何より、「正義」と「悪」はコインのように互いに背中合わせの関係にあり、視点次第でそれぞれの捉え方が異なるということだ。ここで言う視点とは、自らが属する共同体にほかならない。

 畢竟するに、『戦隊大失格』が暴いているのは、「絶対的な正義/悪」などこの世には存在せず、また、「正義」と「悪」がそれぞれ独立して存在しているのでなく、表裏一体の関係にあるということではないだろうか。だからこそ、戦闘員Dや桜間日々輝、錫切夢子、ドラゴンキーパー、各部隊の従一位、訓練生、戦闘員XX……など、怪人・戦隊の別を問わず、あまねくキャラクターに魅力を感じ、その一挙手一投足から目が離せないのだろう。

 

■作品概要

『戦隊大失格』

原作:春場ねぎ(講談社週刊少年マガジン」連載) 

監督:さとうけいいち

シリーズ構成:大知慶一郎

キャラクターデザイン:古関果歩子

制作スタジオ:Yostar Pictures

放送時期:2024年春


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【アニメ】「真意を言葉で語る」ということ――『声優ラジオのウラオモテ』

 『声優ラジオのウラオモテ』の面白さは、その名のとおり「ウラ」と「オモテ」の顔を使い分けることで直面するピンチやトラブルを、主人公たちが乗り越えていくたくましさにある。ここで言う「ウラ」「オモテ」とは、「本音」と「建前」のことだ。「ホント」「ウソ」と言い換えても良いだろう。

 ウラ=本音=ホントと、オモテ=建前=ウソという相反する二つの要素が、この作品のコクを引き出すスパイスとして絶妙に利いているのだ。

偽りのない言葉で危機を乗り越える

 アイドル声優である歌種やすみ(本名・佐藤由美子)と夕暮夕陽(本名・渡辺千佳)は、ウラ=女子高校生としての姿と、オモテ=声優としての姿が180度異なる。清純さを売りにしているにもかかわらず、実は生粋のギャルであるやすみ(由美子)と、容姿端麗で演技も上手く歌唱力も高いが、実は地味で根暗な性格の夕陽(千佳)。この2人が「同じ高校に通っている」という理由で、ラジオ番組(「夕陽とやすみのコーコーセーラジオ!」)のパーソナリティーに抜擢されるところから物語は始まる。

 最初は互いに息が合わず、打ち合わせから本番まで常に険悪なムードが漂っていたのだが、共演を重ねるなかで仲が深まっていき、やがて良きライバルであり相棒として認め合う間柄になった。

 前述したように、2人は作中でさまざまなピンチやトラブルに巻き込まれるのだが、その過程と顛末にはある共通点が見いだせる。それは、「事実や真意を包み隠さず言葉にすることで、ピンチやトラブルを克服している」ということだ。

 例えば、第3話でやすみが夕陽の母にアイドル声優の仕事について語るシーン。弁護士である夕陽の母親は、経済的な安定性から、娘がアイドル声優として活動していることを快く思っていなかった。そんな彼女に対し、やすみは夕陽が声優として大成する可能性を秘めていること、そんな夕陽に追いつきたいという目標を抱いていることを伝える。これは嘘や偽りのない、やすみの真意だ。この一連のやり取りを盗み聞きしていた夕陽も、声優としてライバル視していることをやすみに告げる。これも紛うことなき夕陽の真意だろう。

 こうして2人は、互いに声優としての技量と将来の可能性を認め合う、ライバル的な関係へと発展していった。

 さらに第4話。監督に対する裏営業疑惑が取り沙汰され、学校での”ホント”の姿まで暴露されたことで評価が地に落ちてしまった夕陽を救うべく、やすみは「夕陽とやすみのコーコーセーラジオ!出張版」と銘打ち、真相を打ち明ける生配信を画策する。

 やすみが生配信で語ったのは、これまで2人がキャラを作って表舞台に出ていたことへの謝罪、夕陽が声優という職業に対して真摯に向き合っているという姿勢、そして、夕陽とまた一緒にラジオがしたいという強い想いだ。

 その後、配信スタジオに駆け付けた夕陽は、裏営業疑惑の当事者である監督(神代)とともに騒動の真相を語り、事態は収束へと向かう。その後はやすみも夕陽も、これまでのような「ウラ」「オモテ」の使い分けをやめ、ありのままの姿で声優活動を行うようになった。

ファンの「真意」を耳にする

 しかし、一難去ってまた一難。夕陽の自宅マンションが特定されたことを理由に、夕陽の母親が声優活動の休止を申し出る。声優を諦めようとしない夕陽とやめさせたい母親。2人の対立を目の当たりにしたやすみは、「ファンに特定行為を止めるようお願いする」ことを提案する。過去に「真意を語る」ことで夕陽の疑惑を払拭したやすみは、今回も「真意を語る」ことで危機を乗り越えようとしたのだ。言葉の可能性を信じる、いかにもやすみらしいアイデアと言えるが、夕陽の母親は歯牙にもかけない。

 さらに、2人のファンから「昔のキャラが好きだった」と告げられたことで、やすみと夕陽はアイデンティティークライシスに陥ってしまう。再び逆境に直面した2人がとった行動は、やはり「真意を言葉で紡ぐ」ことだった。

 この模様が描かれているのが第7話だ。やすみと夕陽は動画で過去のファンを裏切ったことを謝罪し、夕陽の母親から出された「声優を続ける条件」をファンに向けて発信する。

 その条件とは「下校途中にファンから声をかけられなければ声優を続けてよい」というもの。実際、通学路には数多くのファンやファン”だった”人たちが多くたむろっており、なかには2人に声をかけようとする者も現れるのだが、別のファンがそれを阻止する。

 ここで語られているのは「ファンの真意」である。「過去のファンを裏切った2人の自業自得」「やすみが嘘をついていたことに傷ついたが、声優はやめてほしくない」「夕陽の声をこれからも聞かせてほしい」「声優を続けてほしい」など、賛否こもごもの思いだ(ちなみに、これらの声は「独り言」ということになっている)。これまで自らの思いを言葉にして発信してきたやすみと夕陽は、ファンの側から「独り言」という形で真意を耳にする。ファンの言葉に背中を押された2人は、夕陽の母親から出された条件を無事クリア。再び声優としての日々を送ることとなったのである。

 かように、この作品では①ウラ/オモテを使い分ける②これにより、ピンチやトラブルに直面する③自分たちの思いを言葉にして発信し、解決を図る――という流れが反復して描かれているのだ。

 ウソや虚飾にまみれた言葉ではなく、偽りのない真実を言葉で紡ぐことが、危機を突破するうえで重要である――。「ラジオ」という、言葉を電波に乗せて発信するメディアをモチーフにしているせいか、この作品にはそんなメッセージが込められているように感じる。

 

【作品概要】

『声優ラジオのウラオモテ』

原作:二月 公(電撃文庫KADOKAWA) 

監督:橘 秀樹

シリーズ構成:大知慶一郎

キャラクターデザイン:滝本祥子

制作スタジオ:CONNECT

放送時期:2024年春


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【書評】読書を阻む原因は「ノイズ」にあり――『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

 本を読みたいのに、ついスマホを触ってしまう。多くのビジネスパーソンがこうした経験をしているはずだ。「そもそも本を読まないんだよなぁ」と言うならば、「本」を別の文化的あるいは趣味的な活動に置き換えてほしい。「資格取得に向けた勉強」「スポーツ」「料理」「旅行」「創作活動」……これらと労働をうまく両立させているビジネスパーソンは少数派で、大多数は仕事の疲れが原因で余暇の時間を有効活用できていないのではないだろうか。

 もしスマホと向き合う時間を、自分のやりたいことに費やしたいのならば、本書は一つの指針となるだろう。

 とはいえ、本書は即効性のある解決策を伝授してくれるわけではない。「デジタルデトックス」や「質の高い睡眠のとり方」といった、インスタントな対処方法を期待しているとしたら、すぐさま別の書籍や情報をあたるべきだ。

 本書の勘どころ、それは現代のビジネスパーソンが抱える労働上の問題点を、日本の読書史と労働史を総覧しつつ指摘し、その上で、働きながら読書ができる社会をつくるための提案を行っているところにある。

 サラリーマンという身分が戦前に誕生してから現代に至るまで、労働と読書は密接な関係にあり、その位置づけは教養を身につけるための手段から、自己啓発を促すための情報を摂取するツールへと変わっていった。そして、情報社会のさなかにある昨今、情報は書籍ではなくインターネットから手軽に得られるようになった。

 この「手軽」という要素がポイントだ。インターネット上の情報は、前提となる知識や社会の文脈といった複雑な情報が排除されている。一方、読書はこの真逆で、知りたい情報はもとより、それに付随する補足的な知識が嫌でも目に留まってしまう。インターネットで得られる情報と読書で得られる情報の違い、それは自分が求めていない情報=ノイズの有無にある。そして、ノイズが除去された状態で情報を受け取れる簡便さと、多忙を極めるビジネスパーソンのライフスタイルが合致したところに、読書と労働の両立を阻む原因があるのだ。

頑張りすぎない社会へ

 情報を手軽に摂取できる現代で、読書はいかなる価値を持つのか。その詳細は本書に譲るとして、最後に著者が本書で論じた提案について触れたい。この本の議論を踏まえて著者が行った提言、それは「全身全霊をやめる」ことだ。

 現代のビジネスパーソンは、自己責任と自己決定を重視する新自由主義の構造のもと、”自ら”市場競争に参加させられていると著者は指摘する。新自由主義社会は人々が「頑張りすぎてしまう」構造を生み出しやすく、これが長時間労働の温床となっているのだ。こうした現在の労働体系を「全身労働社会」と定義し、著者は適度に労働にコミットする「半身労働社会」という仕組みを提示する。

 半身労働社会では、例えば男性雇用者5人で行っていた仕事を、人種・年齢・ジェンダーの多様な10人で分担する。こうすることで、週5日+時間外労働という負荷の大きい労働体系を是正し、余った時間を読書などの文化的な生活に充てられるというわけだ。かなり大胆な提言だが、一考の余地はあるように思う。

 ところで、本書は2024年4月22日に発売されたが、私が入手したものは5月19日に発行された第3刷だった。わずか1カ月の間で2回の増刷。まさにベストセラーである。

 本書の売れ行きからは、労働と読書を両立させたいビジネスパーソンの強いニーズが察知できる。そして、本書を手に取った多くの読者が半身労働社会のコンセプトを理解すれば、一見ダイナミックに映る著者の提案も、実現可能性を帯びてくるのではないだろうか。

 

【書評】ある行旅死亡人の"存在証明"――『ある行旅死亡人の物語』

 2020年4月、兵庫県尼崎市のアパートで、高齢の女性とみられる遺体が発見された。部屋には家具や日用品のほか、ダイヤル式の金庫が置かれており、金庫の中には現金3482万1350円が保管されていた。その一方で、身分を証明するものが一切発見されなかったことから、遺体は「行旅死亡人」として扱われることとなった。

 行旅死亡人とは、名前や住所などの身元が判明せず、引き取り手のいない死者を指す法律用語である。行旅死亡人は身体的特徴や発見時の状況、所持品などが官報によって公告され、引き取り人が現れるのを待つ。本書は上記の官報を偶然目にした共同通信社の記者が、行旅死亡人の身元を特定するまでの一部始終を追ったノンフィクション作品である。

 尼崎市で発見された行旅死亡人(タナカチヅコ)には、不審な点が多くあった。まず、巨額の現金を自宅で保管していたこと。次に、住民票が市役所によって消除されており、本籍地が不明であること(ちなみに、行旅死亡人の氏名はアパートで見つかった年金手帳により判明した)。さらに、右手指を業務中の事故で失ったにもかかわらず、労働災害の申請をしていなかったこと……など、その例は枚挙にいとまがない。

 行旅死亡人の相続財産管理人を務めた弁護士から事のあらましを耳にした著者は、わずかな遺品を頼りにタナカチヅコの足跡を追い、そのルーツに迫っていく。

社会を果敢に生き抜いた証明

 警察庁の調査によると、今年の1月から3月までの間に自宅で亡くなった65歳以上の独居高齢者は、約1万7000人にのぼるという。年単位に置き換えると、実に6万8000人の高齢者が独居状態で亡くなる計算だ。

 もちろん、その多くは身元が明らかなわけだが、中にはタナカチヅコのように身分を特定できない遺体も少なくない。著者によると、行旅死亡人の公告は年間600~700件にのぼるという。孤独死の件数は今後も増加すると見込まれており、その分、行旅死亡人の数も増えていくことが予想される。

 誰にも看取られず、誰にも悲しまれずに亡くなることほど、無念な最期はない。タナカチヅコも忸怩たる思いを抱えながら、この世を去っていったはずだ。戦後の混乱期を生き抜き、夢と希望を抱いて都会へ出るも、仕事中の事故で右手指をすべて失ってしまう。その後は世間の目を盗むように遁世し、ひとり静かに息を引き取った。そんな無念な最期を遂げた女性の”生”に、本書は光を当てる。

 タナカチヅコと縁もゆかりもない報道記者が、1枚の官報をきっかけとして、彼女の人生にスポットライトを浴びせる。そして、その記録を1冊の本にして世の中に発信する。そういう意味で本書は、タナカチヅコという人物がこの世に確かに存在したことを証明する、唯一の「証」なのだ。

 では、当の彼女はいかなる人生を歩んできたのか。本書を読むことで、その輪郭がおぼろげながら浮かんでくることだろう。