会社員ライブラリー

しがないサラリーマンの書評やエンタメ鑑賞の記録

【書評】ある行旅死亡人の"存在証明"――『ある行旅死亡人の物語』

 2020年4月、兵庫県尼崎市のアパートで、高齢の女性とみられる遺体が発見された。部屋には家具や日用品のほか、ダイヤル式の金庫が置かれており、金庫の中には現金3482万1350円が保管されていた。その一方で、身分を証明するものが一切発見されなかったことから、遺体は「行旅死亡人」として扱われることとなった。

 行旅死亡人とは、名前や住所などの身元が判明せず、引き取り手のいない死者を指す法律用語である。行旅死亡人は身体的特徴や発見時の状況、所持品などが官報によって公告され、引き取り人が現れるのを待つ。本書は上記の官報を偶然目にした共同通信社の記者が、行旅死亡人の身元を特定するまでの一部始終を追ったノンフィクション作品である。

 尼崎市で発見された行旅死亡人(タナカチヅコ)には、不審な点が多くあった。まず、巨額の現金を自宅で保管していたこと。次に、住民票が市役所によって消除されており、本籍地が不明であること(ちなみに、行旅死亡人の氏名はアパートで見つかった年金手帳により判明した)。さらに、右手指を業務中の事故で失ったにもかかわらず、労働災害の申請をしていなかったこと……など、その例は枚挙にいとまがない。

 行旅死亡人の相続財産管理人を務めた弁護士から事のあらましを耳にした著者は、わずかな遺品を頼りにタナカチヅコの足跡を追い、そのルーツに迫っていく。

社会を果敢に生き抜いた証明

 警察庁の調査によると、今年の1月から3月までの間に自宅で亡くなった65歳以上の独居高齢者は、約1万7000人にのぼるという。年単位に置き換えると、実に6万8000人の高齢者が独居状態で亡くなる計算だ。

 もちろん、その多くは身元が明らかなわけだが、中にはタナカチヅコのように身分を特定できない遺体も少なくない。著者によると、行旅死亡人の公告は年間600~700件にのぼるという。孤独死の件数は今後も増加すると見込まれており、その分、行旅死亡人の数も増えていくことが予想される。

 誰にも看取られず、誰にも悲しまれずに亡くなることほど、無念な最期はない。タナカチヅコも忸怩たる思いを抱えながら、この世を去っていったはずだ。戦後の混乱期を生き抜き、夢と希望を抱いて都会へ出るも、仕事中の事故で右手指をすべて失ってしまう。その後は世間の目を盗むように遁世し、ひとり静かに息を引き取った。そんな無念な最期を遂げた女性の”生”の記録に、本書は光を当てる。

 タナカチヅコと縁もゆかりもない報道記者が、1枚の官報をきっかけとして、彼女の人生にスポットライトを浴びせる。そして、その記録を1冊の本にして世の中に発信する。そういう意味で本書は、タナカチヅコという人物がこの世に確かに存在したことを証明する、唯一の「証」なのだ。

 では、当の彼女はいかなる人生を歩んできたのか。本書を読むことで、その輪郭がおぼろげながら浮かんでくることだろう。

 

【書評】サブカルを諦めないビジネスパーソンに送る金言集――『サブカルサラリーマンになろう』

 「いい年して〇〇が好きなの?」

 そう冷や水を浴びせられた経験はないだろうか。かくいう私は幾度かある。「〇〇」には固有名詞であったり普通名詞だったり、さまざまな言葉が入るわけだが、それは得てして「サブカルチャー」(サブカル)にカテゴライズされるものだった気がする。

 確かにサブカルは「主流文化(メインカルチャー)に対する副次文化」であり、主に若者を中心に形成されていることは紛れもない事実だ。それは認めるとして、年を重ねたらサブカルと決別しなければならないのだろうか。そもそもサブカルに年齢制限があるのか。サラリーマンとサブカルは両立できないのか……など、さまざまな疑問が泡のように浮かぶものの、冒頭の言葉にまともに反論できず、浮かんだ疑問もたちまち儚く消えていった。

サブライフを彩る一冊

 そういう意味では、本書は「いい年して」サブカルに傾倒するビジネスパーソンの背中を押す一冊だ。

 本書ではサブカルを「サブライフを形成するカルチャー」と定義し、会社員をメインの人生とした場合の、もう一つの人生を彩る文化として位置づける。会社員生活をメインに据えつつも、サブとしてのカルチャー生活を充実させる。そんな前向きなマインドを持った「サブカルサラリーマン」になるための箴言が108も収録されている。

 「PCのデスクトップにカルチャー系活動フォルダをつくる」「カルチャー評論バディを見つける」「サブカル日記をつける」など、サブカルにフォーカスした金言はもちろん、「自分の年齢を自覚する」「メールや書類はライターへのトレーニング」「資料作りを雑務と捉えない」といった、日常業務にも生きるであろう示唆が十二分に盛り込まれている。

 思うに、会社員生活とサブライフは対立するものではなく、相互に補完し合うものではないだろうか。サブライフが充実することで、仕事にもハリが出る。そしてその影響が組織、そして会社全体へと波及していく。サブカルを極めることで、こうしたシナジー効果も生まれるのだ。

 著者自身、大手広告代理店在職中に音楽評論家として活躍しており、現在は同社を早期退職し、評論家や著述家としてサブカルライフを謳歌している。そんな著者が直々に書き下ろした一冊。本書を読み進めれば、彩り豊かな「サブカルサラリーマン生活」になること請け合いだ。

【ナナシス】音楽の本質をいかにして取り戻すか――『EPISODE.KARAKURI』と『EPISODE2053』

 2024年5月7日、EPISODE2053の新エピソードが公開された。Stella MiNEにフォーカスした物語(『星に手が届くなら』)で、アイドル候補生として活動する星影アイと月代ユウの一挙手一投足が描かれている。

 この話の感想は追って記すとして、今回触れたいのは「EPISODE.KARAKURI」である。2017年に公開されたエピソードで、その名の通りKARAKURI――空栗ヒトハと空栗フタバの過去、そして現在に迫った物語だ。

 公開から7年がたった今、なぜEPISODE.KARAKURIに注目するのか。それは、この話がEPISODE2053を読み進める上での補助線になり得ると考えているからだ。具体的には、EPISODE.KARAKURIは誰かに思いを届ける、誰かを勇気づける(ナナシス風に言えば「背中を押す」)という音楽の本質を、ヒトハとフタバの2人が自覚する姿を描いており、そのプロセスを追うことがEPISODE2053を読み進める上で有用であると私は考えている。

 一体どういうことか。これについて詳述する前に、まずはEPISODE.KARAKURIのあらすじを見ていこう。

KARAKURIの音楽はいかにアップデートされたか

 KARAKURIは空栗ヒトハと空栗フタバの双子の姉妹からなるユニットである。押しも押されもせぬトップアーティストで、アイドル文化が廃れた2034年のTokyo-7thにおいて絶大な支持を集めている。そんなヒトハとフタバは、当初アイドルを敵視する存在として描かれていた。EPISODE.KARAKURIでは、2人がアイドルを敵視している理由が明かされている。

 孤児だったヒトハとフタバは、類い稀なる美しい歌声を持っていた。これに目を付けた大人たちが、彼女らをトップアーティストにするべく、当時Tokyo-7thを席巻していたセブンスシスターズを仮想敵としてプロデュースを手がける。身寄りがなく、物心のつく前からアーティストとしてのプロデュースを受けた2人にとって、自らの歌声はセブンスシスターズに勝利するための武器であり、名だたるアイドルに勝利することが彼女らの存在意義であると自覚するようになった。

 そのスタンスはセブンスシスターズが解散し、エンタメシーンの頂点に登り詰めて以後も変わっておらず、にわかに露出が増え始めた777☆SISTERSを、アイドルとして評価しつつ、あくまでも競争相手として捉えていた。

ヒトハ「ステージに立てば、勝つか負けるかの世界なのだし」

フタバ「そう、勝つか負けるか、だね」

(EPISODE.KARAKURI 第1話「インタビュー・ウィズ・KARAKURI」)

フタバ「進歩を諦めるような相手には、塩も送れないね」

ヒトハ「ワタシたちが、アイドルの限界を見たいから」

フタバ「シスターズのいない世界でキミたちが彼女たちに、いや、自分たち自身に挑む姿を、見届けたい」

ヒトバ/フタバ「最後まで、ね」

(EPISODE.KARAKURI 第2話「レッスン・ウィズ・KARAKURI」)

ヒトハ「ワタシたちは進歩を続けているあなたたち、777☆SISTERSと勝負したい」

フタバ「本当の望みはただそれだけなのかもしれない」

(EPISODE.KARAKURI 第2話「レッスン・ウィズ・KARAKURI」)

 物語終盤、ヒトハとフタバは自らの過去の発言を端緒とするトラブルをきっかけに、777☆SISTERSと距離を置こうとするのだが、春日部ハルや天堂寺ムスビたちの働きかけで和解にこぎつける。そしてそれは、KARAKURIにおける存在意義のアップデートが図られるきっかけとなった。

 前述したように、ヒトハとフタバにとってステージは勝負の舞台であり、歌やパフォーマンスは勝負に勝つための手段だった。実際、KARAKURIは持ち前の洗練されたパフォーマンスで他のアイドルを圧倒しており、Tokyo-7thのトップアーティストとして名声をほしいままにしている。

 では、ヒトハとフタバはそんな現状に満足していたのだろうか。答えは否である。満足しているどころか、むしろ胸中にあるのは虚しさであり、その率直な胸中を「Winning Day」で歌い上げている。そう、勝利の果てで手にしたのは言葉では形容しがたい「空虚さ」だったのだ。

 そんな2人の心の扉をこじ開けたのがほかでもない、777☆SISTERSの面々である。KARAKURIと777☆SISTERS、両者のファンが激しく対立するなか、ハルたちは自らの立場を投げうってヒトハとフタバと向き合う。敵対する間柄ではなく友だちとして、これからもつながり続けるために。

 こうした働きかけにより、ヒトハとフタバの価値観そして存在意義は変容していく。それは、勝負に勝つためではなく、ファンに思いを届ける、ファンを勇気づけるために歌を歌うという音楽の本質に近づく営為であり、その結果がヒトハ、フタバのソロパフォーマンスとして昇華する。

 かくして、ヒトハとフタバは空虚な日々を脱却し、新たな日常を歩み始めたのである。

いま「EPISODE.KARAKURI」を読み進める意味

 EPISODE.KARAKURIが示唆しているのは、過熱するエンタメシーンではアイドルやアーティストそのものが商品化し、苛烈な競争に勝ち続けなければ業界から退出せざるを得ないという摂理である。いうなればゼロサム的な市場競争の功罪。それは、Tokyo-7thシスターズという作品を通して繰り返し描かれているテーマであり、EPISODE2053でもこの様子がありありと描かれている。

 2053年のTokyo-7thは、KARAKURIや777☆SISTERSが活躍していた時代とは比べ物にならないほど、エンタメ市場が成熟している。日々新しいアイドルが生まれては消えていくレッドオーシャンで、「切磋琢磨」という言葉ではカバーしきれないほど苛烈な競争が繰り広げられているのだ。

 事実、「Tokyo-Twinkleフェス」や「Misonoo/future*2 Live」など、世間ではさまざまなアイドルフェスが催されており、いずれもファンによる投票で勝敗が決まる。勝者にはますます活躍の場が用意され、敗者はアイドルを続けるか否かの瀬戸際に追い込まれてしまう。AsterlineもRoots.もRiPoPもOFF Whiteも、そんな競争社会の渦中に身を置いているのだ。

 こうなると、音楽はますます競争に勝つための手段と化してしまう。このような状況のなかで、誰かを勇気づける、思いを届けるという音楽の本質を取り戻すにはどうすればいいのか。

 この問いに答えるヒントが、EPISODE.KARAKURIでは凝縮されている。それは、これまで再三述べてきたような「音楽の本質」を訴え続けることであり、競争による優劣とは異なる価値観を醸成することであり、777☆SISTERSとKARAKURI、あるいは4UとKARAKURIといったように、ユニットの垣根を超えた関係性を構築すること――である。

 そういう意味では、EPISODE 2053 SEASON2-004「その手を取って、星に掲げて」で描かれたマイとアリナ・ライストの関係性、そして勝負に敗れたにもかかわらず、「今、私ね――いっちばん楽しくアイドルやってるから!」というアリナの言葉には、競争社会に身を置きつつも、誰かを勇気づける、思いを届けるための音楽を実践できるという可能性が織り込まれているように感じる。

 これを踏まえたうえで楽しみなのが、Roots.とAsterlineの邂逅だ。現在、Asterlineを軸とした「EPISODE2053」とRoots.を軸とした「EPISODE2053 Roots.」が順次更新されている。特に、EPISODE2053 Roots.で描かれているのはRoots.としてデビューするためのオーディションの模様であり、厳密に言うとRoots.はまだ結成されていない。

 オーディションという過酷な状況にいる以上、Roots.にとって音楽は生き残るための手段としての意味合いが大きい。実際にEPISODE2053 Roots.で描かれているのは、パフォーマンスの巧拙がそのまま勝者と敗者を分かつ基準になるという峻厳な事実である。そういう意味でも、現在のRoots.はかつてのKARAKURIと似た境遇にあると言っても過言ではないだろう。

 ヒトハとフタバが777☆SISTERSの働きかけによって音楽の本質を自覚したように、Roots.もAsterlineと対峙することで音楽観に影響を及ぼすのか。はたまた別の展開が待ち受けているのか。今後のEPISODE2053およびEPISODE2053 Roots.は、この点に注目したい。

yojouhan0526.hatenablog.com

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【書評】語り手の「おかしさ」を察知できるか――『むらさきのスカートの女』

 近所で有名な「むらさきのスカートの女」。頬にはシミが浮き出ており、肩まで伸びた黒髪はツヤがなくてパサパサしている。いつも紫色のスカートを穿いているから、いつしかこの呼び名が定着していた。本作はそんな「むらさきのスカートの女」を軸として描かれる「何かおかしい」物語である。

 本作の語り手は「むらさきのスカートの女」ではない。彼女と友だちになりたいという「黄色いカーディガンの女」の視点で物語が進んでいく。

 語り手は「むらさきのスカートの女」が仕事を探していること、就職活動に苦戦していること、電話口で選考落ちを告げられたこと――など、「むらさきのスカートの女」の一挙手一投足をつぶさに把握している。語り手は彼女と距離を縮めるべく、自らが勤める職場の情報が載ってある求人情報誌を「むらさきのスカートの女」の自宅に何冊も届けたり、シャンプーの試供品を届けて身だしなみを整えるよう誘導したりと、ありとあらゆる働きかけを行う。

 こうした語り手の作戦(?)が奏功し、「むらさきのスカートの女」は無事就職するのだが、そこでも、語り手は相変わらず「むらさきのスカートの女」に目を光らせる。同僚と打ち解け、次第に垢抜けていく「むらさきのスカートの女」はやがて上長と不倫関係になり、密会を重ねるようになる。もちろん語り手も2人の関係性を把握しており、デートを尾行することもあった。

 このように「むらさきのスカートの女」に執着する語り手だが、それでも、「むらさきのスカートの女」が語り手の行動を認識したり、2人が会話したりする機会は一切なかった。ようやく2人が接触するのは物語終盤のこと。語り手は「むらさきのスカートの女」と友だちになるべく、大胆な行動をとっていたにもかかわらず、その存在はまるで空気のように意識されていなかったのである。

語り手の悲哀

 語り手の存在を意識していないのは、われわれ読者も同じではないだろうか。少なくとも私自身は「むらさきのスカートの女」の行く末に気を取られ、語り手の異常な行動を見落としてしまっていた。いや、うすうす勘づいてはいたものの、語り手の「異常性」に背筋が凍る思いをしたのは本作を再読したからだ。私のように「むらさきのスカートの女」に気を取られ、語り手の異常性を頭の片隅に置いていた読者は少なくないように感じる。

 よくよく考えればおかしい点が多々ある。前述した「電話口で選考落ちを告げられたこと」を理解しているのもそうだが、「むらさきのスカートの女」に突進して精肉店のショーケースを壊したり、デートの尾行中に立ち寄った居酒屋で代金を払わずに店を出たり(このことはおそらく店にばれていない)と、その例は枚挙にいとまがない。

 それでも読者の注意は「むらさきのスカートの女」に集まる。彼女の徐々に垢抜けていく様、上長との禁断の恋愛の行方、同僚に嫌われ居場所を失っていく「むらさきのスカートの女」の胸中……など、物語の中心にいるのは「むらさきのスカートの女」だ。

 大胆な行動をとっているにもかかわらず、「むらさきのスカートの女」はおろか、読者にさえその存在を認識してもらえない。「黄色いカーディガンの女」の悲哀はこの点にある。

 

【書評】「1億総疲労社会」の処方箋――『休養学』

 疲労回復には睡眠が一番。おそらく、大多数のビジネスパーソンがそう理解していることだろう。本書はそんな至極当然の言説を覆す。もちろん、睡眠が重要なのは言うまでもないが、運動やバランスの良い食事、趣味への没頭など、睡眠を含めた余暇の過ごし方が疲労の回復度合いを大きく左右すると著者は言う。

 現代人はパソコンやスマートフォンなどのデジタルデバイスを駆使して仕事を行っている。仕事だけではない。他者とのコミュニケーションやショッピング、情報収集、エンタメ鑑賞など、ありとあらゆる行為がデジタルデバイスを通じて行われている。デジタルデバイスの長時間利用は首・肩のこりや眼精疲労など体の不調に加え、自律神経の乱れを引き起こすと言われていることから、現代人の疲労感はデジタルデバイスに起因すると言ってよいだろう。

 肉体労働が主流だった昔の時代であれば、睡眠をきちんと取ることで疲労回復を図ることができた。かたや、今はデジタルデバイスを用いた労働が主流の時代。仕事が終わってからもデジタルデバイスと向き合うことから興奮・緊張状態が続き、日常生活のリズムが狂ってしまう。このリズムの乱れが現代人の疲労の原因であると著者は指摘する。

 つまるところ、体力は睡眠をとることで回復するが、活力はそう簡単に取り戻せない。ロールプレイングゲーム風に換言すれば、HPは睡眠で回復するが、MPは睡眠だけでは回復しないのだ。

「適度な負荷」が重要

 本書が解説しているのは、現代人に向けた体力(HP)と活力(MP)の取り戻し方だ。医学博士である著者によると、疲労回復には「休みつつ、適度に負荷をかける」ことが重要であるという。どういうことか。

 前述したように、睡眠だけでは体力しか回復しない。活力は睡眠以外で取り戻すほかなく、そのための手段が「負荷をかけること」というわけだ。

 では、どのような負荷をかければ良いのか。著者はその要件として①自分で決めた負荷であること②仕事とは関係ない負荷であること③それに挑戦することで、自分が成長できるような負荷であること④楽しむ余裕があること――の四つを挙げる。つまるところ、「楽しい」という感情が喚起されるような物事に、能動的に取り組むことが重要なのである。

 この答えは人によって異なるはずだ。ウオーキングやジョギングなどの運動を挙げる人もいれば、芸術鑑賞を挙げる人もいるだろう。レジャー、料理、旅行といった回答もありそうだ。いずれにしても、楽しいと思える負荷を定期的にかけることが、疲労回復には欠かせないのだ。

 

【書評】「居場所」をめぐる少女の物語――『マウス』

 本作は「居場所」をめぐる2人の少女の物語である。空気を読みながら自らの居場所を作ろうと躍起になる律。クラスになじめずどこにも居場所がなかった瀬里奈。お互いにスクールカーストの下層に属していたものの、律が仕組んだある出来事をきっかけに、瀬里奈は一躍クラスの人気者になる。
 子どもにとって学校、とりわけ学級は社会の縮図だ。そのクラスになじめるかによって、その一年間が明るく楽しいものか、辛く厳しいものかが決まると言っていい。特に物心がつき始めると運動神経の優劣、性格、容姿などからクラス内で序列が形成される。一度形づくられた序列はよっぽどのことがない限り崩れることはない。スクール"カースト"と呼ばれる所以がここにある。小学5年生にしては思考が打算的すぎる気がするにせよ、自分と似たような性格の友だちとつるみ、居場所を作ろうとした律の行動は理解できないものではない。
 一方の瀬里奈は友だちが一人もおらず、ささいなことを理由に号泣することから、クラスメイトから腫れ物を触るような扱いを受けてきた。が、ある日、律が『くるみ割り人形』の物語を瀬里奈に読み聞かせると、性格が一変。これまで自分を虐めてきた男子生徒に反撃し、クラスの中心にいた女子生徒と活発にコミュニケーションを交わすなど、まるで別人のように変わった。その後も瀬里奈はことあるごとに『くるみ割り人形』を読み、気高い自分を"演じる"ようになる。
 そして数年後、大学生となりファミレスでアルバイトに励む律は、バイト先からの帰り道で瀬里奈に再会する。2人は再び交流を始めるのだが、やがて律は瀬里奈に対して嫉妬の感情を抱くようになる。
 成長しても律の控え目な性格は変わっていない。大学生活は満喫できていないようで、ファミレスバイトの時間が唯一「社会にフィットしている感覚」が得られる(このあたりの設定は芥川賞を受賞した『コンビニ人間』を連想させる)。一方の瀬里奈はコンパニオンのアルバイトをしていた。今でも『くるみ割り人形』を読むことで社交的な自分を演じているようだが、本質は変わっていない。再会後は律のバイト先に客として来店するようになったが、そのときの雰囲気は小学生のころの暗くおとなしい瀬里奈だ。そんな彼女を律は否定せずに受け入れ、瀬里奈も「ここに来ると、安心する。息つぎ、してる感じがする」と、本来の自分が出せる「居場所」と言わんばかりに通いつめる。

居場所を探す律/居場所を与えられる瀬里奈

 このように本作では、「自らの居場所をなんとか確保する」律、「周囲から居場所を与えられる」瀬里奈という構図が全編を通して貫かれている。前半はクラスのポジション取りに思考をめぐらせる律と、『くるみ割り人形』を与えられたことでクラスでの居場所を確立した瀬里奈。後半はバイト先のファミレスに居場所を見出す律と、「息つぎしている感覚が得られる場所」を律から与えられる瀬里奈、といったように。
 そして、律がこの構図に自覚的になることで、やがて瀬里奈との距離が生じてしまう。実は、バイト先になじんでいると思っていたの律だけで、バイト仲間からは「仕事に厳しい」と恐れられていたのだ(このあたりの設定も『コンビニ人間』に通じる)。思い返せば、小学生時代の友だちとも、おとなしいという性格が一致していただけで、決して仲が良いわけではなかった。自分がどれだけ頑張っても得られなかった「居場所」を、瀬里奈は他者から易々と与えてもらっている。物語終盤、律は瀬里奈に対して感情を爆発させるのはそのためだ。
 律、瀬里奈の心情の変化、そして思春期特有の自意識過剰さが非常に繊細な筆致で描写されている。著者の他の作品に比べて皮肉や風刺は薄味だが、秀作である。

【書評】世界は「編集」でできている――『知の編集工学』

 動画編集、画像編集、雑誌編集……。「編集」という言葉には、どこか職人気質なイメージが纏わりついていると感じる。実際に『広辞苑』で「編集」の頁を引いてみると「資料をある方針・目的のもとに集め、書物・雑誌・新聞などの形に整えること」とある。つまるところ、編集とは新聞や書籍や雑誌、映画やテレビや動画といったメディアをつくる一連のプロセスを指し、そのスキル(編集力)は記者や編集者、テレビマン、クリエイターといった特定の職業にのみ求められるもの――。そう思ってはいないだろうか。

編集=情報の運動に潜む営み

 本書の主張はこれらの印象とは一線を画す。著者は、編集とは情報のインプット/アウトプットの間に潜む営みであり、コミュニケーションの本質であると喝破する。あまねく人々の生活と密接にかかわっており、誰もが知らず知らずのうちに行っている動的なはたらき。それが編集の本質なのである。

 商品やサービスの提案書を例示してみよう。提案書を作る目的は商談を成功に導くことにある。よって、提案書には訴求力の高いタイトルをつけ、顧客の目をひくような見出しやリード文を盛り込み、自社のビジネスがいかにして相手に貢献できるかといった要素を盛り込まなければならない。そのためにも、相手にまつわる情報を仕入れ、整理したうえで課題を分析し、構造化し、ここに自社の商品・サービスをあてはめ、文書に展開する必要がある。この一連のプロセスをつぶさにみていくと、情報のインプット/アウトプットに潜む営みという編集の本質が、しっかりと宿っていることが理解できるだろう。このように、提案書づくりも立派な「編集」的行為なのだ。

編集を実践する

 そんな編集にまつわるノウハウを集約し、実践的スキルとして体系化したのが本書だ。著者の松岡正剛は雑誌や書籍の執筆・編集を経て、日本文化、芸術、生命哲学、システム工学など多方面に及ぶ思索を情報文化技術に応用する「編集工学」を確立した編集の第一人者。稀代の読書家としても知られ、自前の書評サイト(「松岡正剛の千夜千冊」)では数多く書評を紹介している。

 本書では編集力を鍛えるためのメソッドが多数収録されている。「連想ゲーム」「エディティング・プロセス」「編集工学の『作業仮説』」「六十四編集技法」など、著者が編集に長年携わる中で編み出したノウハウやフレームワークが目白押しだ。本書を精読すれば、間違いなく編集力が伸びていく。

 とはいえ、重要なのは獲得した知識やノウハウを実践に生かすことである。これは何も編集に限った話ではないが、知識やノウハウの習得に満足せず、積極的なアウトプットを通じてこそ、スキルの向上が実現するのだ。

 そう、自己研鑽も情報のインプット/アウトプットを反復する、「編集」の王道をゆく行為なのである。