会社員ライブラリー

しがないサラリーマンの書評やエンタメ鑑賞の記録

【書評】世界は「編集」でできている――『知の編集工学』

 動画編集、画像編集、雑誌編集……。「編集」という言葉には、どこか職人気質なイメージが纏わりついていると感じる。実際に『広辞苑』で「編集」の頁を引いてみると「資料をある方針・目的のもとに集め、書物・雑誌・新聞などの形に整えること」とある。つまるところ、編集とは新聞や書籍や雑誌、映画やテレビや動画といったメディアをつくる一連のプロセスを指し、そのスキル(編集力)は記者や編集者、テレビマン、クリエイターといった特定の職業にのみ求められるもの――。そう思ってはいないだろうか。

編集=情報の運動に潜む営み

 本書の主張はこれらの印象とは一線を画す。著者は、編集とは情報のインプット/アウトプットの間に潜む営みであり、コミュニケーションの本質であると喝破する。あまねく人々の生活と密接にかかわっており、誰もが知らず知らずのうちに行っている動的なはたらき。それが編集の本質なのである。

 商品やサービスの提案書を例示してみよう。提案書を作る目的は商談を成功に導くことにある。よって、提案書には訴求力の高いタイトルをつけ、顧客の目をひくような見出しやリード文を盛り込み、自社のビジネスがいかにして相手に貢献できるかといった要素を盛り込まなければならない。そのためにも、相手にまつわる情報を仕入れ、整理したうえで課題を分析し、構造化し、ここに自社の商品・サービスをあてはめ、文書に展開する必要がある。この一連のプロセスをつぶさにみていくと、情報のインプット/アウトプットに潜む営みという編集の本質が、しっかりと宿っていることが理解できるだろう。このように、提案書づくりも立派な「編集」的行為なのだ。

編集を実践する

 そんな編集にまつわるノウハウを集約し、実践的スキルとして体系化したのが本書だ。著者の松岡正剛は雑誌や書籍の執筆・編集を経て、日本文化、芸術、生命哲学、システム工学など多方面に及ぶ思索を情報文化技術に応用する「編集工学」を確立した編集の第一人者。稀代の読書家としても知られ、自前の書評サイト(「松岡正剛の千夜千冊」)では数多く書評を紹介している。

 本書では編集力を鍛えるためのメソッドが多数収録されている。「連想ゲーム」「エディティング・プロセス」「編集工学の『作業仮説』」「六十四編集技法」など、著者が編集に長年携わる中で編み出したノウハウやフレームワークが目白押しだ。本書を精読すれば、間違いなく編集力が伸びていく。

 とはいえ、重要なのは獲得した知識やノウハウを実践に生かすことである。これは何も編集に限った話ではないが、知識やノウハウの習得に満足せず、積極的なアウトプットを通じてこそ、スキルの向上が実現するのだ。

 そう、自己研鑽も情報のインプット/アウトプットを反復する、「編集」の王道をゆく行為なのである。

 

【書評】レイワを生き抜く「健全な反逆」のススメ――『令和その他レイワにおける健全な反逆に関する架空六法』

 パンチの効いたタイトルである。「健全な反逆」。「架空六法」。つい、ストーリーを妄想したくなる。「悪法に苦しむ市民」を描いたのだろうか。それとも「パワハラ上司を訴えるビジネスパーソン」を描いたのだろうか。それとも……と想像しながらページをめくると、思わず「なにこれ」と独り言ちてしまった。なにせ最初の物語が「動物が動物を訴える話」だったからだ。
 本作にはこうした架空の法律をベースにした短編作品が6本収録されている。「すべての動物の生きる権利を保障する」「労働者の健康管理を徹底する」「賭け麻雀を合法的に認める」など、現実味のあるものから荒唐無稽なものまで内容はさまざまだが、いずれもディティールが詳細に作りこまれているため、それぞれのストーリーが立体的に構築されている。弁護士の資格を持つ著者だからこそ為せる技だといえよう。
 例えば動物同士の訴訟を描いた「動物裁判」は、動画配信で注目を集める黒猫が、パートナーであるボノボにわいせつな行為をされたとして告訴するところから始まる。実際に訴えを起こしたのは猫の飼い主で、主人公に弁護を依頼したのもボノボの飼い主だが、動物関連の裁判を得意とする主人公は、依頼人に一目惚れしたこともあり、いつも以上に張り切って裁判を進めていく。
 一見すると、主人公は職務熱心な若手弁護士に映る。しかし、話が進むにつれて次第に自らの境遇に対する劣等感、さらにはいびつな自尊心や歪んだ恋愛感情がチラつくようになる。そして裁判が終わるころには、依頼人への慕情が膨れ上がり……。動物が動物を訴えるところから、「人間」のみにくい内面にストーリーがシフトしていくのが本話の見どころだ。冒頭で拍子抜けしてしまったものの、作品が進むにつれて気づけば作品世界に没頭していった。グラデーションの移り変わりが絶妙である。

価値観の押し付けに抗う

 家庭での酒造りに悪戦苦闘する主婦を描いた「自家醸造の女」も白眉だ。このエピソードは戦後になって禁酒法が廃止され、造酒を奨励する法令が施行された架空の日本社会が舞台。「自家醸造が古き良き伝統文化である」という価値観が根強いなか、主人公の万里子は造酒の経験がなく、お酒も市販のもので満足していたが、義母の頼みを断れずなくなく自家醸造にトライすることになる。
 このエピソードには「女性は酒造りが上手くなければならない」という意識が貫かれている。蒸米、製麹、酒母造りなど、造酒に関するすべての工程を"手づくり"で行うことが美徳であるという風潮に、主人公は試行錯誤を重ねながら酒造りを担う。そんな性別役割分業意識は、「家事は女性がするべき」という、これまた日本の「伝統的価値観」とオーバーラップする。
 このほか「労働者保護」のお題目のもと、勤め先にバイタルデータを常時管理されている非正規従業員を描いた「健康なまま死んでくれ」、賭け麻雀が合法化され、接待麻雀を生業とする雀士が主人公の「接待麻雀士」など、どの話も架空の法律に翻弄されるキャラクターたちの喜怒哀楽がつぶさに描かれている。いずれもパラレルワールドの「レイワ」という設定だが、各話の出来事はどこか現代社会とリンクするし、「自家醸造の女」のような既存の価値観に一石を投じようとする意欲作も多い。
 既存の価値観に横槍を入れる。既存の価値観の押し付けに抗う――。「健全な反逆」とはそういう意味なのかもしれない。

【書評】「ポスト産業資本主義」時代における会社の在り方――『会社はこれからどうなるのか』

 重厚長大型の産業資本主義は耐用年数をとうに過ぎ、日本社会は差異を意識的につくり出すことで利潤を生みだしていく時代――ポスト産業資本主義の時代にシフトしている。ポスト産業資本主義の社会では、他社製品/サービスとの間にはいかなる差異があるのかという「情報」が価値を持ち、これに付随して、情報を処理する技術や伝達する技術の開発が促され、商品化されていく。

 すなわち、ポスト産業資本主義の社会ではヒトの知識や能力といったおカネで買えないものの重要度が高まり、これらを伸ばすことで他社が容易に模倣できない独自の差異性が生み出され、より多くの利潤を獲得することができる。したがって、ポスト産業資本主義を生き抜くには、独自の差異性を創造し、維持・拡大していくための取り組みが不可欠になるのだ。具体的には、他社との差異を絶えず生み出す個性的な組織を築くために、その組織を構成するヒトのスキル定着/スキルアップに力を注ぐ必要がある。こうした人的資本への投資が、会社の命運を左右するというわけだ。

 独自の差異性を創造、維持、拡大できる個性的な組織は、そうでない組織に勝る――。これは、大量の資金を調達して大型の機械設備を導入し、商品を大量生産することで利潤を得ていた産業資本主義時代のセオリーとは180度異なる考え方である。

ポスト産業資本主義の到来

 本書の主張を要約すると、おおよそ上のような形になるだろう。分かりきったことだ。何を今さら……。と、見くびることなかれ。本書の初版発売日は2003年2月(平凡社ライブラリー版はリーマンショックから約1年後の09年8月に刊行)。つまり、デジタル技術が日本社会に浸透する以前に、来るべき情報社会とそれにふさわしい人的資本戦略について提言していたのである。

 その後、日本はインターネットを中心としたITインフラが整備され、日常生活を送るうえでデジタル技術の利活用が欠かせなくなった。今やDX(デジタルトランスフォーメーション)が生産性向上に必須の考え方として錦の御旗のごとく掲げられている。

 人的資本についても同様だ。2018年にISO(国際標準化機構)が世界初の「人的資本に関する情報開示ガイドライン」であるISO30414を公開し、20年にはSEC(米国証券取引委員会)が人的資本に関する情報開示をルール化した。国内に目を向けると、21年6月に施行された改訂版コーポレートガバナンスコードによって、人的資本の開示等に関するルールが設けられたことを機に、日本企業も「人的資本経営」の名のもとに、従業員のスキルや生産性の向上等に着手するようになった。上で述べた人的資本投資の具現化である。かように、著者の予想した未来はものの見事に現実となったのだ。

 他社との差異を絶えず生み出す個性的な組織を築くために、その組織を構成するヒトのスキル定着/スキルアップに力を注ぐ必要がある――。平成中期に提示した著者の主張は、令和を迎えた今もなお、色あせていない。

 

【ナナシス】それでもAsterlineは「誰かの背中を押す」――『EPISODE2053 SEASON2』

 とある映画の撮影で訪れた孤島での夜。満天の星空の下で、奈々星アイは「Asterline」らしさについて模索していることを支配人に告げる。アイドルでいるために無理をするのは違う。自然と誰かの背中を押せる、そういうのが私たちらしいのではないか――と。

 これは『EPISODE.2053 SEASON2-003「バックステージ」』第4話での一幕だ。ある「若手映画監督」から映画出演のオファーを受けたアイは、一ノ瀬マイと朝凪シオネ、支配人とともに孤島へと向かう。島では多くのトラブルに見舞われ、思うように撮影が進まない。冒頭のやりとりは、そんな状況の中でこれまでの活動を顧みたアイと支配人によって交わされたものである。

 その後、紆余曲折があったものの、撮影隊の「背中を押して」撮影は無事終了する。島での活動に手ごたえを感じたAsterlineは、この後も「誰かの背中を押す」を軸に据え、アイドルして奮闘していくのだった。

Asterlineが存在意義を見出すまで

 このように、『EPISODE.2053 SEASON2』では、Asterlineが自らの存在意義を見出すまでのプロセスが描かれている。彼女らの存在意義、それが「誰かの背中を押すこと」であることは言うまでもないだろう。

 「Tokyo-Twinkleフェス」でRiPoPに敗れた結果、ナナスタWの経営が悪化し、廃業の瀬戸際まで追い詰められてしまうが、支配人が金策に奔走したことで資金繰りのめどが立ち、どうにか廃業を免れることに成功する。なんとか首の皮一枚でつながったナナスタW。これ以上負けるわけにはいかないと、Asterlineの3人は目の前の仕事に無我夢中で取り組むようになる。

 毒舌美食家とのラジオ対談。RiPoPとの鬼ごっこ対決。オファーされた仕事は断らず、前向きな姿勢で仕事に臨む3人。なかでもマイとシオネは、自分たちの存在を知ってもらう絶好の機会と言わんばかりに、これまで以上に「頑張る」と口にし、仕事に対して意欲的な姿勢をみせたのである。

 冒頭のアイの発言は、そんなマイとシオネの振る舞いを受けてのものだ。アイドルとして結果を出すことを求めるあまり、張り切りすぎているのではないか。いわゆる「かかっている」状態に2人は陥っているのではないか、と心配するアイ。自然体で居られる、なおかつ、誰かの励みにもなる。それこそ、『EPISODE.2053 SEASON1-005「星屑のアーチ」』で描かれた廃校ライブのように、「自然と誰かの背中を押す」ことこそ、Asterlineの目指すべき姿、すなわち存在意義なのではないかと告げたのである。 

「背中を押す」=「光」

 誰かの背中を押す――それはナナシスという作品がこれまで真摯に描いてきた、一つのテーマである。作品の根幹をなす概念と言ってもよいだろう。事実、エピソードでは頑張る他者をナナスタのアイドルたちが応援する様子が多く描かれてきた。そのうえ、背中を押すベクトルはエピソードや楽曲はプレイヤーである私たち「支配人」にも向けられているし、実際に作品の後押しを受けて、ひたむきに、かつ着実に歩みを進めた支配人も少なくない(このあたりの詳細は、ナナシス10周年を記念して放送された「ナナシス放送局 Special『みんなのKILL☆ER☆TUNE』」を聴いていただきたい)。

 誰かの背中を押すこと。ある意味それは「光を放つ」こととも言える。光がなければ目的地がどの方向にあるか皆目見当がつかないし、光が世界を照らしているからこそ、私たちは着実に歩みを進めることができる。多くの人が目の前の道を着実に歩めるよう、その後押しをする。この1点において「光」と「背中を押す」ことには通底するものがあるし、「EPISODE.2053」もこのスタンスをしっかりと継承していると言えるだろう。ナナシス風に言えば「バトンがつながれている」のだ。

 とはいえ、「EPISODE.2053」における「背中を押す」ことの意味合いはそれだけにとどまらない。「EPISODE.2034」にはなかった、ある別の要素も含まれているのだ。それはいったい何か。「バックステージ」第6話でのマイの言葉を借りるなら、「頑張っている人の背中を押して、その『姿を見せる』こと」。すなわち、「背中を押す人と押しているAsterlineの姿を発信する」というものである。

 そしてそれは、Asterlineが群雄割拠のTokyo-7thでアイドルとして生き残るための「生存戦略」でもあるのだ。

急所を突くアリナの指摘

 なぜ背中を押すことがAsterlineの生存戦略になるのか。その答えは『EPISODE.2053 SEASON2-004「その手を取って、星に掲げて」』で明確に描かれているが、これを説明する前にまずは話のあらすじを紹介したい。

 このエピソードでは、早速「背中を押すさま」を実況中継するAsterlineの様子が描かれている。全国高校コマ大会に出場する学生、絵画のコンクールに出す絵を描きたい美大生、転校初日に励ましてほしい小学生など、Asterlineのもとにはありとあらゆる「背中を押してほしい人」の声が殺到。配信の評判は上々で、配信サイトのランキングにもランクインするほど。発案者のマイも確かな手ごたえを感じている様子で、この配信をきっかけに、Asterlineは「Misonoo/future*2 Live」に招待されるなど成果も出ている。

 そんな「Misonoo/future*2 Live」の出場に向けて準備を進めるなか、マイはあるアイドルと親交を持つようになる。人気急上昇中の地下アイドルユニット「OFF White」のリーダー、アリナ・ライストだ。アリナは自身の「素」の姿をマイに目撃されて以来、マイの行動に執着。マイの一挙手一投足を監視したり、Asterlineの配信を視聴し、コメントを残したりしている。マイの人当たりの良い性格により、次第に2人は打ち解けるわけだが、そのなかでアリナはAsterlineの配信についてある疑問を呈する。言うまでもなく、彼女らの配信のことだ。

 ユニットコンセプトの再構築、パフォーマンスの底上げ、OFF Whiteのもとに多くの収益が残るよう緻密に構成されたビジネスモデルの確立……ありとあらゆるテコ入れを一手に引き受け、OFF Whiteを人気ユニットへと変貌させたアリナにとって、Asterlineの活動は理解できるものではなかった。それどころか、「アイドルに関係ない」「お金にならない自己満足」と舌鋒鋭くツッコミを入れる。もちろん、アリナに悪気があるわけではない。前述したような手法でユニットを立て直したアリナにとって、アイドル活動に直結しない、お金にもならない行動に時間を割くことが純粋な疑問としてあるのだ。

 こうしたアリナの問いに対し、当のマイはどう感じているのか。その答えはこうだ。

たしかにそういうのちゃんと考えたことなかったけど……

私たち、誰かの背中を押せられたらなって思うんです。

(中略)

頑張っている人の力に、ちょっとでもなれたら私たちもパワーアップ! 

できる気がしてて! 人とつながると、なにかが少しずつ変わる。

みんなをつないだら、どんなにすごい私たちになれるのかなって!

(EPISODE.2053 SEASON2-004「その手を取って、星に掲げて」第4話)

 マイの発言をまとめると「それがAsterlineの存在意義だから」の1点に尽きる。頑張っている人を応援する。それによって、自分たちの力量も上がっていく。いろいろな人の背中を押し、その人たちがつながることで、Asterlineも前進していく。そこに喜びや楽しみがある。これは嘘偽りのないマイの本心であり、Asterlineの総意である。

生存戦略としての「背中を押す」こと

 とはいえ、アリナの指摘も一理ある。2053年の世界はアイドルビジネス真っ盛り。Tokyo-7thでは日々新しいハコスタが生まれては撤退する、弱肉強食の競争が繰り広げられているのだ。当のナナスタWも支配人が営業活動や金策に奔走し、日々苦汁をなめている。冒頭で説明したように、資金繰りがひっ迫し廃業寸前まで追い込まれたこともあった。このように、Tokyo-7thにおいてアイドルと市場競争は不可分の関係にあり、生きるか死ぬかの生存競争が日々繰り広げられているのだ。

 このような状況下で、一見するとアイドル活動には直接プラスにならない、お金にもならないことに注力するAsterlineの行動は確かに不可解だ。それはまさに、アリナの言うように「自己満足」の域を出ていないのかもしれない。

 だが、Asterlineの活動は結果として表れている。配信での評判も良く、彼女らの認知度の向上にもつながっているし、「Misonoo/future*2 Live」でも、かつてAsterlineに背中を押された面々が会場に詰めかけ、彼女らに向けて声援を送った。その声援がAsterlineに届き、パフォーマンスにますます磨きがかかり、結果Asterlineは「Misonoo/future*2 Live」で優勝を飾った。このように、背中を押すことが巡り巡ってアイドルとして成果を挙げることに結びついているのである。

 ここにあるのは「善因善果」「情けは人の為ならず」の論理だ。Asterlineが他者の背中を押し、Asterline自身もまた他者から背中を押される。この循環が彼女らの認知度向上、そしてファンの獲得に結びつき、アイドル激戦区のTokyo-7thで脚光を浴びるまでになったのだ。もちろん、Asterlineはこれを見越していたわけではないだろう。ただ純粋にあまねく人々の背中を押した結果が、巡り巡って自分たちに返ってきたのである。まさに「情けは人の為ならず」だ。

 誰かの背中を押すこと。これは群雄割拠のTokyo-7thでAsterlineがサバイブするための生存戦略である。それは草の根レベルの地道な活動かもしれないが、Asterlineが蒔いた種は確実に芽吹きつつあるのだ。

 Asterlineを取り巻く環境は依然厳しい。うかうかしていると足をすくわれる。そんな危うさをTokyo-7thのエンタメ業界ははらんでいる。だが、Asterlineはそんな外的環境に挫けず、これからもひたむきに誰かの背中を押していくことだろう。

 くどいようだが、それが彼女らの存在意義であり、生存戦略なのだから。

【書評】一方通行化する「言葉」への警告――『東京都同情塔』

 東京2020オリンピック・パラリンピック大会のメイン会場に使用された新国立競技場。その目と鼻の先にある新宿御苑に、70階建ての高層建築物が屹立している。通称「シンパシータワートーキョー」。東京スカイツリーや東京タワーのように、都会のシンボルとして大衆の耳目を集めているが、実態は犯罪者を収容する刑務施設である。

 もちろん、私たちが暮らす日本にはこのような施設は存在しない。実際の新宿御苑は四季折々の自然に間近で触れることのできる、風光明媚で静穏な自然公園だ。

 そう、本作『東京都同情塔』は「もう一つの日本」、いわゆるパラレルワールドのわが国を舞台にした作品で、「言葉」と「現実」をめぐるジレンマと社会が直面する課題がいみじくも描かれている。第170回芥川賞受賞作で、「作品の一部分を生成AIが執筆した」ことでも有名だ。

言葉と現実をめぐるジレンマ

 本作の舞台である「もう一つの日本」では過激な表現、配慮を要する表現を忌避する風潮が強く、ありとあらゆる日本語が「カタカナ語」に置き換えられている。例えば、「育児放棄」は「ネグレクト」、「配偶者」は「パートナー」、「全性別」は「ジェンダーフリー」といったように、ありとあらゆる局面でカタカナ語が多用されているのだ。この背後には、これらの言葉が持つマイルドさをもって、不平等感や差別感を排除すべきという社会の潮流が見え隠れする。

 「シンパシータワートーキョー」も同様だ。「もう一つの日本」では、犯罪者は本人の出自や境遇、パーソナリティーについて同情を示されるべき存在「ホモ・ミゼラビリス」(「ホモ・サピエンス」と「あわれ」を意味する「ミゼラブル」を掛け合わせた造語)と再定義されている。「犯罪者」「受刑者」などという言葉は差別的表現で、口にするのはもちろんご法度だ。そんな同情されるべき人々が入居する施設。それが「シンパシータワートーキョー」である。

現代のバベルの塔

 主人公で建築家の牧名沙羅は、「シンパシータワートーキョー」というフレーズに嫌悪感を示しながらも、名称の決定は建築家の範疇にないと折り合いをつけ、タワーの設計を手がける。しかし、のちに彼女はタワー建設の否定派(ホモ・ミゼラビリスにシンパシーすることを良しとしない連中)から苛烈な誹謗中傷に晒され、隠遁生活を余儀なくされる。

 沙羅のもとに寄せられる誹謗中傷の数々は、上に挙げた「差別語」よりも過激で、より差別的な意味合いを帯びている。そのさまは、過激な表現、配慮を要する表現を忌避する社会の風潮とは真逆だ。

 本作が焦点を当てている問題もこの点にある。要するに、社会に向けられる言葉が婉曲的でマイルド化する一方、個人に向けられる言葉は尖鋭的で過激さを増しているという実態。すなわち、言葉の「二極化」である。

 言葉とはコミュニケーションのための手段である。自分自身の思いや考えを伝えるには言葉を用いるほかなく、言葉の先にはそれを伝えたい相手や対象物が存在する。つまるところ、言葉の本質はその「双方向性」にあるのだ。

 一方で、本作に出てくる言葉の数々は双方向性に著しく欠けている。どれもこれも一方通行なのだ。社会に向けられる言葉は多方面に配慮を重ねた結果、意味を捉えるのが難しい無機質な性質を帯びているし、個人に向けられる言葉は端から平和的なコミュニケーションを放棄した、過激で陰湿な表現に終始している。

 沙羅は想像する。やがて来る未来、言葉の双方向性は失われてしまうだろう――と。まさに、「ホモ・ミゼラビリス」を提唱した幸福学者が交わした最期のやりとりのように。このように、「言葉の二極化が進み、双方向性が失われた結果、意思疎通を円滑に図れないディスコミュニケーション状態が常態化する」という問題意識は、現代の日本社会にも通底しているように感じる。

 「創世記」には、人々が天に達するほどの高塔を建てた結果、神の逆鱗に触れ、言葉が乱され相互に意思疎通が図れなくなったという物語がある。本作が予測する未来も創世記のこれに近い。

 言うなれば、シンパシータワートーキョーは現代の「バベルの塔」なのだ。

 

【書評】シニア人材に送る「応援歌」――『老人と海』

 近年、シニア人材の活躍がしきりに叫ばれている。それは、令和3年4月1日に施行された「改正高年齢者雇用安定法」が大きく影響していることだろう。

 同法では、70 歳までの定年の引き上げや定年制の廃止、70歳までの継続雇用制度(再雇用制度・勤務延長制度)の導入などを事業主に対して要請している。これらは義務ではないものの、公的年金の受給年齢引き上げが議論されていることから、多くのシニア人材が70歳近くまで働くことを視野に入れているようだ。生涯学習ならぬ、「生涯労働」時代の到来である。

 こうした世の中の流れを、当のシニア人材はどう捉えているのだろうか。パーソル総合研究所が昨年に実施した「働く10,000人の成長実態調査2023 シニア就業者の意識・行動の変化と活躍促進のヒント」によると、55~59歳の就業者(プレ・シニア就業者)の多くが「65歳まで」と答えており、「60歳まで」「70歳まで」がやや拮抗している。他方、60~64歳のシニア就業者の半数以上が「65歳まで」と答えており、3割程度が「70歳まで」、2割程度が「71歳以上」と答えている。さらに、65~69歳のシニア就業者になると、6割近くが「70歳まで」と答えている一方、「71歳以上」が4割まで拡大している。このように、年齢を重ねるごとに「長く働き続けたい」と考える人材が増加傾向にあるのだ。

 とはいえ、終わりのない職業生活を送る中で、モチベーションを保ち続けるのは容易なことではない。ときには「なぜ70歳近くまでなって働いているのか」「これ以上働きたくない」というネガティブな感情を抱く場面にも、少なからず直面することだろう。

 そんなシニア人材にお勧めしたい一冊が、アーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』である。

老人と海』は現代社会の縮図

 本作はキューバの老漁夫を主人公に据え、海という自然の脅威に揉まれながらも大魚の捕獲に奮闘する姿を描いている。1954年にはノーベル文学賞を受賞し、今なお世界的にも読み継がれている米文学不朽の名作だ。

 あらすじは次のとおり。84日間の不漁に見舞われたサンチャゴは、85日目の漁にしてようやく大物に遭遇した。大型のカジキマグロである。サンチャゴは3日間、不眠不休の状態で死闘を繰り広げ、ようやく捕獲に成功する。が、その帰り道、複数匹のサメの襲撃に遭い、捕獲したカジキマグロを食いちぎられてしまう。

 作中で、サンチャゴはとにかく孤独な人物として描かれている。伴侶には先立たれ、同業者には馬鹿にされる。サンチャゴを慕う少年はいるものの、少年の親は自分の子どもがサンチャゴと親しくしていることを好ましく思っていない。経験と勘は豊富なものの、加齢による体力の衰えにはあらがえない。つまるところ、サンチャゴは「終わった人」なのだ。

 それでも、サンチャゴは海に出る。いつか来る大漁の日を信じて。来る日も来る日も海に出る。それが漁師としての矜持だからだ。そして85日目の漁、サンチャゴは大物のカジキマグロと遭遇する。激しい荒波や暴れる獲物に翻弄され、心折れそうになりながらも、持てる力を振り絞り、やっとの思いで捕獲するのだ。捕獲した直後のサンチャゴは、大仕事を終えた手ごたえに満ち溢れていた。

 大物の獲物に対峙するサンチャゴの姿は、シニア人材のそれとオーバーラップする。日々の業務も、サンチャゴの漁のように一筋縄では進まない。社会情勢の変化は潮の流れのように激しいし、対人関係も魚を捕獲するように繊細に築かなければならない。『老人と海』の世界観は現代社会の縮図と言っても過言ではない。

 それでも、シニア人材には長年培ってきたスキルや経験という武器がある。長年の漁生活で培った経験をフルに生かし、自然の微妙な変化を読み、駆け引きを交えながらカジキマグロを捕獲したサンチャゴのように、若手や中堅、ベテラン社員にはない視点と手法で未来を開けるのは他でもない。シニア人材である。

 本作はシニア人材に向けた「応援歌」的一冊と言えるだろう。

【書評】人間の根源的な「問い」を思考する――『人生を変える読書 人類三千年の叡智を力に変える』

 著者の堀内勉氏は東京大学卒業後、日本興業銀行、ゴールドマンサックス証券などを経て、森ビルに入社。森ビル・インベストメントマネジメント社長、森ビル取締役専務執行役員CFOなどを歴任し、現在は多摩大学大学院経営情報研究科教授、多摩大学社会的投資研究所所長を務めるかたわら、一般社団法人100年企業戦略研究所所長、社会変革推進財団評議員、川村文化芸術振興財団理事、資本主義研究会主宰としても活動している。

 無類の読書家としても知られており、数々の媒体で書評を連載しているほか、2021年には200冊にのぼる書籍の書評集『読書大全』を上梓。ビジネスパーソンが抑えるべき書籍をピックアップし、その要点をわかりやすく解説しているとして、好評を博している。

 本書『人生を変える読書 人類三千年の叡智を力に変える』では、数多くの本を丹念に読みこんできた著者による「読書の効能」が語られている。

博覧強記の著者が語る「読書の効能」

 読書の効能、それは「『私は何者か?』を考えるきっかけを与えるところにある」と著者は言う。私は何がしたいのか、何をするべきなのか、何が好きなのか、何を欲しているのか――など、「私」を取り巻くさまざまな感情を自覚し、自分なりの答えを出すには、一にも二にも読書あるのみというわけだ。あまねく本を手に取り、思考の材料と枠組みを醸成することによって、「私」という軸が太く頑丈になる。

 現代社会はとかく自我が希薄になりがちだ。「ルーティンワークはAIにとって代わる」「現代人はデジタルスキルが不可欠」などの言説が幅を利かせ、不安に感じたビジネスパーソンがこぞってAIやDXに関するスキルを身につけようと躍起になる。モノを買うときも、ネットのレビューやショッピングサイトのレコメンド機能を参考に買うかどうかの判断を下す。現代社会のよくある光景だが、これらに共通するのは「私」が希薄な状態に陥っているということだ。このままではあなたは損をする、あなたは淘汰されていく、あなたにはこの商品がぴったり――など、外部環境に身を委ねて意思決定する。そこに「私」は介在しない。言うなれば、「"私"の希薄化」「"あなた"の肥大化」である。

 周りに流されることほど楽なものはない。特に変化が激しく不確実性の高い現代社会では、数多くの正解のない問題に頭を悩ませるよりも、周りが提示する「答え」を参考にした方が効率的だ。一方で、こうした風潮が蔓延しているところに、今の日本社会の課題がある著者は指摘する。

問題の本質を見極めようとはせずに、ひな鳥が口を開けて餌を待っているのと同じように、世の中の誰かが答えを提示してくれるのをひたすら待っているあいだに、世界の人たちは自分の頭でものを考えて、どんどん先へと進んでいってしまう……。そうして日本という国が右顧左眄しながら右往左往しているうちに、ものすごい勢いで世の中が変化していき、その流れに置いていかれてしまっている。――それが、私たち日本人の今の姿なのではないでしょうか。(P37)

 誰かに正解を教わるのではなく、自分自身で問いを立て、解決する。これの繰り返しによって、VUCAの時代を生き抜く力が鍛えられる。その知的体幹を鍛える唯一の手段こそ、本を読むことにほかならない。