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【書評】日本はなぜ満蒙国境で敗走したのか――『ノモンハンの夏』

 ユーラシア大陸東部、中国とモンゴルの国境近くに、ノモンハンがある。見渡す限りの草原に、放牧された牛や馬が草を食む――まさに"牧歌的"という言葉を体現したかのようなこの土地で、惨憺たる戦闘が繰り広げられたのは今から82年も前のことだ。

 ノモンハンは当時、満州国とモンゴルの国境線が敷かれていたが、その線引きが不明瞭だったことから、満州国を後押しする日本軍(関東軍)とモンゴルを後押しするソ連軍でたびたび軍事衝突が発生。1939年5~8月にかけての「ノモンハン事件」も、ちょっとした小競り合いから、最終的に日本側の死傷者が約2万人、ソ連側の死傷者が約2万5000人にのぼる大規模な戦闘へと発展した。

 人的被害だけを見ればソ連軍がはるかに上回るものの、日本側は何ら芳しい戦果を得られていない。むしろ、第二十三師団の7割が壊滅状態に陥るなど多くの兵士が犠牲になり、軍事物資を必要以上に消耗してしまったことから、日本軍はノモンハン事件で"敗れた"とみるべきだろう。

 ノモンハン事件の敗北を決定づける要因は数あれど、最も影響が大きかったのはやはり「彼我の戦力差」であろう。日本軍が十一個師団、戦車200輌、飛行機560機を動員した一方、ソ連軍は三十個師団、戦車2200輌、飛行機2500機を動員した。特に、ソ連は航空機や戦車等の近代兵器を軸とした戦法を採用したのに対し、日本軍は対戦車戦闘に懐疑的で、軽量小型の戦車を量産し歩兵を直接支援しながら、車両性能を増強させる方針を取った。つまり、陸軍兵による白兵突撃を軸に、小型の軽量戦車で突破する作戦を立てていたのである。いくら歴戦の陸軍兵と言えども、鉄の塊が相手では歯が立たない。特に七月の戦闘では関東軍の死傷者数が4400人を超えたという。

過去に学ぶソ連、過去にこだわる日本

 圧倒的な戦力差が生まれた背景には、ソ連側の「過去の敗北に学ぶ」姿勢と、日本側の慢心がある。ソ連軍は日露戦争の敗北を受け、日本軍の戦術研究に精を尽くしていた。敗北から学び、新しい野戦形式を採用するなど、過去の失敗を次の戦闘に生かそうという方針がソ連軍にはあったのである。一方の日本軍は相変わらずの白兵銃剣主義。将兵の忠勇さと、敵を厭わず突進する精神力が帝国陸軍の伝統であると、誰もが信じて疑わなかったのである。事実、太平洋戦争の終結まで陸軍兵は三八式歩兵中を携行していた。戦況や軍事技術の最新動向に目もくれなかったことが、事件の行方を決定したと言っても過言ではないだろう。

 関東軍の独断専行も見逃せない。事実、作戦計画の立案を担う参謀本部では、満蒙国境紛争について「事態不拡大」の方針を示していた。にもかかわらず、関東軍は強硬姿勢を。特に、現地で作戦指導を行った辻政信少佐は、本部に無断でソ連軍基地への空爆を実施したり、現地師団長の指揮権を無視して勝手に部隊を動かすなど、関東軍の指揮命令系統を混乱に陥れた。辻は常々「関東軍の伝統」という言葉を口にしており、この言葉を出されると誰も逆らえなかったそうだ。こういった中央との連携を怠ったり、独断専行による強硬姿勢もノモンハン事件では裏目に出たのである。著者も辻を「絶対悪」と評するなど、手厳しい。

 とはいえ、本書は関東軍の戦術・戦略を否定的な立場からレポートしており、著者の"アンチ陸軍"ぶりの強さは否めない。ノモンハン事件についてニュートラルな立場から検証するには、陸軍目線の書籍を渉猟する必要があるように思う。

 『ノモンハン秘史』や『潜行三千里』(ともに辻政信著)あたりが相応しいだろうか。