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【書評】仕事をイーブンにこなす”事務の人”の矜持――『これは経費で落ちません!~経理部の森若さん~』

 本作の主人公である「森若さん」は、まさに「事務の人」である。少々乱暴な言葉を使うとするならば、「事務の擬人化」と言い切ってよいだろう。それは本作を通じて森若さんの振る舞いや思考回路を追うことで、自然と納得できるはずだ。

「事務の人」≠「正義のヒーロー」

 青木祐子による『これは経費で落ちません!』シリーズは、中堅メーカーの経理部に勤める森若沙名子が社内の問題や人間関係のトラブルを淡々と処理していく「お仕事小説」である。2016年に第1巻が出版されて以降、24年3月時点で11巻まで刊行されており、シリーズ累計発行部数は190万部にのぼる。2019年には多部未華子主演で実写ドラマ化され、こちらも好評を博した。

 経理部社員である森若さんのもとには、日々さまざまな領収書が持ち込まれる。出張費、接待交際費、手土産代など用途は多岐にわたり、これらを森若さんが1件ずつ金額や用途の妥当性を精査する。しかし、なかには業務利用が疑わしい領収書が持ち込まれるも少なくなく、これを追及することをきっかけに、森若さんが社内の疑惑や問題、人間関係のゴタゴタに巻き込まれていく――というのが大筋のストーリー展開だ。

 例えば、第1巻の第一話「これは経費で落ちません!」では、営業社員の山田太陽が「4800円 たこ焼き代」と記された領収書を沙名子のもとに持参する。取引先との食事代、しかも「たこ焼き」で4800円は高すぎないか。何か裏があるのではないか――。そうにらんだ森若さんは、以後、太陽の行動を注視するようになる。実際、これは取引先との食事代(取引先社長の子どもの好物がたこ焼きだった)で、沙名子の調査によってこれが明らかになり、領収証の妥当性と太陽の潔白が証明される。ちなみに、今回の件を機に森若さんと太陽の仲が接近。太陽から好意を寄せられるようになる(森若さんと太陽の恋模様も次第にフィーチャーされていく)。

 このほかにも、製造部員による経費の私的利用や営業部員による不必要に長い出張など、領収書1枚を起点に社内の人間模様や思惑、問題点が徐々に浮き彫りとなっていく。ときには不正を働いた社員を告発することもあるが、金額的に重要性の低い取引でのズルやごまかし、業務と私用の判断に迷うような場合は釘をさすだけに留めている。

 なぜ踏み込んで追及しないのだろうか。それは森若さんの本分が、「経理部」の職務をまっとうするところにあるからだ。経理部の業務は会社の規模によって濃淡はあるだろうが、大まかにいうと資金を管理すること、経済取引の結果を帳簿類に記すこと、試算表や決算書などの集計表を作成し、経営者に報告することが挙げられる。搔い摘んで言えば、「資金の管理」と「財務諸表の作成」、「経営者の意思決定に役立つ情報の提供」こそが、経理部に与えられた役割だ。少なくとも、不正を働いた社員を断罪することは、経理部の役割ではないはずである。

 森若さんの判断基準はいたってシンプル。「経理的に問題があるか否か」だ。だからこそ、森若さんはあくまでも経理部の社員という立場から、領収書の不備や妥当性を追及する。経理的に問題があれば責任を追及するし、(当人に悪意があっても)表面上の問題がなければ、それ以上に追及することはない。

 このように職域によって境界線を引き、その線を極力越えようとしない森若さんの姿勢は、彼女の職業観が多大な影響を与えている。森若さんの職業観、それは「イーブン」という言葉に集約される。入ってくる量と出ていく量が同じであること。差し引きゼロ。貸借が一致している状態こそ、彼女の理想なのだ。

 森若さんは会社の飲み会や社員とのプライベートの関係構築には拒否反応を示すなど、公私をきっぱりと分ける人物だ。自らに与えられたミッションを100%まっとうし、その分の給料をもらう。彼女が会社や仕事に求めているのはこの一点だけ。だからこそ、森若さんは自らの業務の範疇を超えた物事には極力踏み込もうとしないのだ。経理という会社から与えられたミッションをこなし、その分の報酬を得る。森若さんが望むのは、ひとえにこの貸借の一致だけである。

 森若さんは社員の不正を白日の下にさらし、会社の正義を体現する「ヒーロー」では決してない。経理部の人間として経理の仕事をまっとうし、担当外の業務とは距離を取る、どの会社にも一人は存在する「事務の人」なのである。そう、森若さんは何も特別な存在などではなく、きわめて普遍的な市井の人間なのだ。

 こうした森若さんのスタンスは、本作の位置づけにも直結している。すなわち、社員の経理不正を暴き、成敗することではなく、領収書の不備から会社員、ひいてはヒトという”ずる賢い”生き物の一挙手一投足を描くところに本作の本質があるのだ。

事務化する結婚準備

 森若さんが「事務の人」たるゆえんは、彼女のプライベートにも表れている。

 本作では森若さんと太陽の恋模様が横軸として貫かれている。そしてそれは、巻を追うごとに色濃く描写されるようになる。第1巻で森若さんに恋心を抱くようになった太陽。2人の関係は徐々に近づき、4巻で交際に発展。9巻でプロポーズを受け、11巻で結婚に向けて準備を進める様子が描かれている。

 この結婚準備を進める森若さんの行動は、まさに事務的の一言に尽きる。森若さんは結婚に向けて話し合うべきこと、解決すべきタスクをエクセルにまとめ、これをPDF化して太陽に共有する。実家へのあいさつ、会社への報告、苗字変更など、結婚にあたって必要な手続きを表にまとめ、管理しようとしたのである。この行動は、対象が会計数値から結婚手続きに置き換わっただけで、行為そのものが「事務的」であることに変わりはない。

 2人のプロポーズもメールでのやり取りだった。

「結婚しよう」(太陽)

「了解です」(森若)

(『これは経費で落ちません!10』P186 カッコ内は筆者注)

 結婚準備というごくごくプライベートなやり取りについても、自然と事務手続きと化してしまう。これらのやり取りからも、森若さんを「事務の擬人化」とたとえた理由が理解できるだろう。

 とかく事務処理はルールが事細かに定められており、手続きが面倒なものとして語られがちだが、面倒だからこそ物事をミスなく正しく処理することができるのだ。そしてそれを下支えしているのは、森若さんのような事務職の存在に他ならない。

 経理部の森若さん――本書の副題、特に「経理部の」という連体修飾語からは、業務もプライベートも事務的に処理する「事務の人」としての矜持が伝わってくる。