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【書評】1945年8月15日の攻防――『日本のいちばん長い日』

 8月15日は言わずと知れた終戦記念日である。混迷を極める戦時体制にピリオドを打った節目の一日で、毎年この日が近づくとメディアは「凄惨な悲劇を風化させてはならない」と言わんばかりに、こぞって戦争特集を組む。

 とはいえ、その取り上げ方は「戦争を繰り返さないために、過去の歴史から何を学ぶか」にフォーカスし、この日の出来事をコンパクトにまとめて伝えがちだ。すなわち、8月15日は「日本がポツダム宣言を受諾した日」「『終戦記念日』として戦争と平和について考える日」として凝縮され、昭和天皇の聖断から玉音放送に至るまでのプロセスが詳報される機会は、きわめて少ないように思う。事実、79年前のこの日は、他の歴史的事象にも劣らない激動の一日であった。

 昭和天皇の〝聖断〟をもって無条件降伏を決定した日本政府だが、その後の閣議では早速暗礁に乗り上げた。降伏を日本国民に知らせる詔書玉音放送で語られる内容)策定である。終戦を報せる詔書である以上、文面や文章表現で閣議出席者や学者からの注文が相次ぐなど侃々諤々の議論を呼んだ。特に紛糾の様相を呈したのは1カ所――「戦勢日ニ非ニシテ」(戦局が日に日に悪くなっていく)というセンテンスだ。この文言をめぐり、阿南惟幾陸軍大臣東郷茂徳外務大臣・米内光政海軍大臣で、激しく意見対立した。

 米内が、戦争に敗れたという事実を漏れなく伝えるために、「戦勢日ニ非ニシテ」を用いるべきと言い出せば、阿南は「戦局必ズシモ好転セズ」(戦争に敗れたのではなく、戦局が好転しなかっただけ)とするべきであると応戦。幾多の激戦で命を落とした者、今なお異国の地で戦火を交えている者に〝栄光ある敗北〟を与えてやりたい。そのためには、負けを自ら進んで受け入れていると解釈できる「戦勢日ニ非ニシテ」ではなく、奮闘するも力が及ばなかった「戦局必ズシモ好転セズ」こそがふさわしい、と阿南は考えたのである。

 また、当時陸軍内には徹底抗戦を叫ぶ声も根強く、無条件降伏の撤回を目的に若手将校が武力行使する懸念があった。そこに、国家が自ら負けを認めるようなことを表にすれば、彼らはたちまちクーデターを決起する――阿南が文言の変更を主張し続けたのは、こうした抗戦派将校の動きを抑える意図も念頭にあったのだろう。一方の東郷・米内も折れずに「戦勢日ニ非ニシテ」を主張していたが、阿南の頑なな反対によって翻意。詔書には「戦局好転セズ」が用いられることとなった。

 結局、詔書案は7回も書き直され、削除カ所は23。その字数は101字にのぼる。一方、加筆が18カ所58字で、新しく書き込まれたものは4カ所18字。ちなみに、「戦局必ズシモ好転セズ」と決定した時にはもうすでに清書済みだったことから、完成した詔書の「戦勢日ニ非ニシテ」の部分を刃物で削り、その上から書き記したという。

 一方、阿南の心配をよそに、陸軍の青年将校らは着々とクーデターの準備を整えていた。中心人物は畑中健二少佐。ポツダム宣言を受諾し、日本国が連合国の隷属下におかれることは皇室、ひいては日本国家の形骸化を招く。国体を護持するにはなんとしてでも聖断を撤回させなければならない――畑中は同じ志を持つ青年将校と徒党を組み、政府の意向を覆すための軍事行動を企てるのだった。しかし、徹底抗戦が口端にのぼっていたのは主に若手の将校たちで、師団長、参謀長クラスになると「すでに聖断は下された」と徹底抗戦に否定的な者が多かった。

 そこで、畑中らは玉音放送を阻止すべく、昭和天皇の音声を収めた録音盤の奪取と宮城(皇居)の占拠を実行。天皇の側近らを宮城の地下に軟禁した。録音盤のありかを巡って一触即発の状況が続くなか、ある一人の人間が自刃したことで事態はやがて終息へと向かう。阿南惟幾陸相だ。8月15日午前5時、阿南は昭和天皇の放送を聞くことなく、大臣官邸で割腹自殺を図った。自室の机上には「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書が残されていたという。阿南の死で将校らは意気阻喪したのか、その後、東部軍管区司令官の田中静壹によってクーデター部隊が拘束。聖断の撤回がかなわないことを悟った畑中は、阿南と同様に玉音放送を耳にする前に宮城内で拳銃自殺を図ったという。8月15日午前11時のことである。その1時間後、無条件降伏の意向を伝える玉音放送がラジオで全国放送された。

 今年で戦後79年。わが身をもって戦いを体験した生き字引の多くが鬼籍に入るなか、過去の戦禍がもたらした悲惨さ、むごさを再確認する日として、終戦記念日の存在意義はますます重要になりつつある。そして、その背後には閣僚や将校らによる壮絶なドラマがあったことを、私たちは念頭に置くべきだろう。