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【書評】細菌兵器に手を染めた陸軍軍医の横顔――『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』

 1946(昭和21)年5月3日に開廷した極東国際軍事裁判、通称「東京裁判」では戦争犯罪を行ったとされる軍人、政治家28人がA級戦犯として起訴された。太平洋戦争開戦時の首相・東条英機や陸軍の重鎮である荒木貞夫国際連盟脱退を表明した松岡洋右など、いずれも日本を惨憺たる戦いに巻き込んだ当事者ばかり。このうち病死や精神障害による訴追免除者を除く25人に有罪判決が下され、うち7人が絞首刑となった。

 彼らは戦勝国11カ国で構成される裁判官によって裁かれたが、一人、重大な戦争犯罪を犯したにもかかわらず、GHQとの取引によって訴追を免れた軍人がいる。石井四郎――日本の細菌戦研究を指導した陸軍軍医だ。

 石井が生まれたのは日本で天然痘が流行した1892(明治25)年。28歳で京都帝国大学医学部を卒業すると、近衛歩兵第三連隊、京都帝国大学大学院等を経て陸軍軍医学校防疫研究室に配属。コレラ赤痢チフスから守るための細菌ろ過設備(「石井式濾水機」)の開発に従事した。時あたかも満州事変が勃発した頃。戦場では実際の戦闘よりも感染症による死者数が上回っていた。感染症対策は陸軍の目下の課題だったのである。そのため、1936年に「関東軍防疫部」が編成。味方の兵士の感染予防を促すと同時に、細菌戦の実施に向けて本格的に計画を練ることとなった。その陣頭指揮を執ったのがほかでもない、石井である。

GHQとの陰謀的取引

 1940年以降、石井部隊(731部隊)は細菌戦に向けた種々の実験を行うようになった。細菌兵器の実用性を試すため、中国軍や米軍の捕虜を実験台にした。菌液を彼らに注射しわざと感染させ、その変化の様子を実験したのだ。

 細菌の撒布も行われた。例えば、雨下による菌液散布。雨天時に4000メートル以上の高度から細菌を含んだ液体を戦地に向けて撒くのである。ペストに感染させたノミ(ペストノミ)を戦地に散布することもあった。実際、40年9月18日から10月7日の間で計6回に及ぶ細菌戦攻撃が行われ、浙江省寧波、金華、玉山などの都市にペストノミやコレラ菌チフス菌の菌液を撒布した。この作戦の被害規模は1万人にのぼり、赤痢とペスト、コレラ患者を中心に1700人以上が死亡したという。

 このように731部隊は細菌兵器によって多くの兵士、民間人の命を奪ったのである。これはまさに「人道に対する罪」であり、この事実を知ったGHQも責任者である石井を東京裁判で裁くはずだった。しかし、すでに述べたとおり石井は訴追を逃れ、1959年に没するまでその生涯を全うした。

 なぜ石井は東京裁判で裁かれなかったのか。その理由はGHQ総司令官であるダグラス・マッカーサーにある。ソ連との冷戦をにらみ、米軍の軍備増強を図りたいなか、マッカーサーが目を付けたのが731部隊の細菌兵器。石井の研究成果を米軍が独占する見返りとして、石井以下731部隊の兵士は起訴を免れたのである。皮肉にも、細菌兵器のおかげ(せい)で石井は生き長らえることができたのだ。

 終戦後の石井は親や子供の行く末を案じ、宝くじの結果に一喜一憂する小市民的な一面をのぞかせるようになった。そこには、野心の赴くまま細菌戦研究に没頭した軍医の面影など一ミリもない。

 まるで人が変わったような石井の姿に触れるたび、「本当の悪は凡庸で思考停止的」というハンナ・アーレントの言葉を思い出す。