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【書評】ある行旅死亡人の"存在証明"――『ある行旅死亡人の物語』

 2020年4月、兵庫県尼崎市のアパートで、高齢の女性とみられる遺体が発見された。部屋には家具や日用品のほか、ダイヤル式の金庫が置かれており、金庫の中には現金3482万1350円が保管されていた。その一方で、身分を証明するものが一切発見されなかったことから、遺体は「行旅死亡人」として扱われることとなった。

 行旅死亡人とは、名前や住所などの身元が判明せず、引き取り手のいない死者を指す法律用語である。行旅死亡人は身体的特徴や発見時の状況、所持品などが官報によって公告され、引き取り人が現れるのを待つ。本書は上記の官報を偶然目にした共同通信社の記者が、行旅死亡人の身元を特定するまでの一部始終を追ったノンフィクション作品である。

 尼崎市で発見された行旅死亡人(タナカチヅコ)には、不審な点が多くあった。まず、巨額の現金を自宅で保管していたこと。次に、住民票が市役所によって消除されており、本籍地が不明であること(ちなみに、行旅死亡人の氏名はアパートで見つかった年金手帳により判明した)。さらに、右手指を業務中の事故で失ったにもかかわらず、労働災害の申請をしていなかったこと……など、その例は枚挙にいとまがない。

 行旅死亡人の相続財産管理人を務めた弁護士から事のあらましを耳にした著者は、わずかな遺品を頼りにタナカチヅコの足跡を追い、そのルーツに迫っていく。

社会を果敢に生き抜いた証明

 警察庁の調査によると、今年の1月から3月までの間に自宅で亡くなった65歳以上の独居高齢者は、約1万7000人にのぼるという。年単位に置き換えると、実に6万8000人の高齢者が独居状態で亡くなる計算だ。

 もちろん、その多くは身元が明らかなわけだが、中にはタナカチヅコのように身分を特定できない遺体も少なくない。著者によると、行旅死亡人の公告は年間600~700件にのぼるという。孤独死の件数は今後も増加すると見込まれており、その分、行旅死亡人の数も増えていくことが予想される。

 誰にも看取られず、誰にも悲しまれずに亡くなることほど、無念な最期はない。タナカチヅコも忸怩たる思いを抱えながら、この世を去っていったはずだ。戦後の混乱期を生き抜き、夢と希望を抱いて都会へ出るも、仕事中の事故で右手指をすべて失ってしまう。その後は世間の目を盗むように遁世し、ひとり静かに息を引き取った。そんな無念な最期を遂げた女性の”生”に、本書は光を当てる。

 タナカチヅコと縁もゆかりもない報道記者が、1枚の官報をきっかけとして、彼女の人生にスポットライトを浴びせる。そして、その記録を1冊の本にして世の中に発信する。そういう意味で本書は、タナカチヅコという人物がこの世に確かに存在したことを証明する、唯一の「証」なのだ。

 では、当の彼女はいかなる人生を歩んできたのか。本書を読むことで、その輪郭がおぼろげながら浮かんでくることだろう。