会社員ライブラリー

しがないサラリーマンの書評やエンタメ鑑賞の記録

【アニメ】「正義」と「悪」の捉え方を組みなおす――『戦隊大失格』

 1975年放送の『秘密戦隊ゴレンジャー』を皮切りに、現在までに48の作品が制作されている「スーパー戦隊シリーズ」。作品ごとにモチーフや作風の違いはあるが、いずれも男女複数人で構成される戦隊ヒーローが、社会を脅かす悪の組織と戦うという展開が代々踏襲されている。

 約半世紀もの間、こうした勧善懲悪の物語が支持され続けているのはなぜか。それは、正義のヒーローが悪を懲らしめるというストーリーが、(特に幼少期の)視聴者の爽快感やカタルシスを喚起する最も大きな要素であるからに他ならない。スーパー戦隊シリーズでは「正義/悪」「ヒーロー/悪」「味方/敵」といった二項対立の構造が時代を超えて脈々と受け継がれている。

 そして、こうした構造を、いわゆる戦隊モノのフォーマットを用いて「脱構築」しようと試みているところに、『戦隊大失格』の面白さがある。

「正義」と「悪」を兼ね備える

 かつて地球侵略をたくらむも、竜神戦隊ドラゴンキーパー(大戦隊)に討伐された怪人軍団。大戦隊に「毎週日曜日、地上に侵攻し敗れる」という秘密の協定を結ばされて以来、13年の長きにわたってやられ役に徹していた。

 そんな抑圧された生活から脱却し、大戦隊への復讐を成し遂げるべく反旗を翻したのが怪物軍団の下っ端戦闘員Dである。Dは持ち前の「ヒトへの擬態能力」を駆使し、大戦隊の瓦解のために暗躍する――これが、本作の概略だ。

 悪の組織の、それも実際の戦隊作品では一介のモブキャラでしかないヒラの戦闘員が、正義の象徴である戦隊側に歯向かうという設定の時点で、まずひと工夫凝らされている。が、それ以上に斬新なのは大戦隊の描かれ方である。市民の平穏な日常生活を守り、周囲から憧れのまなざしを注がれる大戦隊/ドラゴンキーパー。その実態はお世辞にも「正義の味方」とは言えない、欺瞞にまみれた極めて利己的で排他的な組織だった。

 特に、その中枢にいるレッドキーパーは、他者に対して平然と暴力を働く、乱暴狼藉の極みのようなキャラクターで、なかでも戦闘員Dの反逆を理由に、協定を素直に順守している他の怪人たちに圧力をかけるさまは、正義のヒーローの振る舞いと言えるものではない。むしろ、下請けの中小企業に過剰な値下げや取引の打ち切りを要求する大企業のような、弱い立場に対して強権を行使する悪役に映る。

 こうしてみると、プロットの時点ですでに「正義」と「悪」が目まぐるしく反転していることに気づくだろう。弱い立場にある怪人を抑圧する大戦隊。現状の体制に抗い、下克上をもくろむ戦闘員D。字面だけを追えば、怪人側に「正義」や「ヒロイック」な面を、大戦隊側に「悪」や「敵」としての要素を感じざるを得ない。

 とはいえ、怪人軍団も、もともとは世界征服をたくらみ、地球侵略を図ったれっきとした「悪」だ。実際に、戦闘員Dは世界征服を諦めてはいないし、ある怪人軍団の幹部の生き残りは、大戦隊のメンバーを完膚なきまでに蹂躙している。こうした存在に制裁を加えるのは、ヒーローとして当然のことではないだろうか。

 つまるところ、怪人軍団も大戦隊も「正義」の要素を持つと同時に、「悪」の要素を備えているのだ。

正義は「わたしたち」の中にある

 では、この両者を分かつ基準は一体どこにあるのか。「正義」と「悪」の二面性について興味深い指摘をしているのが、東映のプロデューサーである白倉伸一郎である。『超光戦士シャンゼリオン』『仮面ライダー555』『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』など、数多くのヒーロー作品を輩出してきた白倉は、自著『ヒーローと正義』(子どもの未来社)のなかで次のように述べている。

ある対象を〈悪〉とするのも〈ヒーロー〉とするのも、「わたしたち」を中心軸とした世界観の問題である

白倉伸一郎『ヒーローと正義』子どもの未来社

 ポイントは、わたし“たち”と複数形で表現しているところにある。すなわち、「正義/悪」の判断基準は個人ではなく、「わたしたち」と表現できる複数形――共同体の価値観に左右される、というわけだ。白倉は同書で、童話『泣いた赤鬼』や『激走戦隊カーレンジャー』をヒントに、赤鬼や宇宙暴走族ボーゾック(カーレンジャーの敵対怪人)の幹部が、なぜ「正義」側の人間たちに受け入れられたかについて解説している。掻い摘んで説明すると、赤鬼もボーゾックの幹部も、最終的には人間の側に恭順の意を示したことで、人間にとって「わたしたち」と括れる存在となった。このことが、鬼や怪人が人間側の一員として受け入れられた要因だという。

 『戦隊大失格』の話に戻ろう。市民が大戦隊を「正義」と捉えているのは、ともに天ノ川市民という「わたしたち」で括れる存在だからだ。同じ地域社会を構成する「わたしたち」の立場からすれば、大戦隊と対立する怪人軍団は「悪」であり、「わたしたち」の代表である大戦隊に打ちのめされるべき敵にほかならない。市民が大戦隊に声援を浴びせ、その挙措進退にカタルシスを覚えるのは、天ノ川市という同じ共同体に属しており、ともに「わたしたち」という一人称複数代名詞で括れる点にあるのだ。

 一方、戦闘員Dの「正義」は怪人側にあり、「悪」は大戦隊側にある。改めて説明するまでもないことだが、それは、怪人軍団が戦闘員Dにとっての共同体(わたしたち)だからだ。 

 訓練生である桜間日々輝の「正義」もまた、共同体に大きく影響されている。幼いころの日々輝にとって、「正義」は「人間も動物も怪人も、命は平等に存在する」「大戦隊が武装しているから、怪人も暴力を行使せざるを得ない」という両親の価値観の影響を受けて形成されている。これまで述べてきたことからも分かると思うが、こうした怪人寄りの正義観は、桜間家という共同体を通じて培われたと言っても過言ではない。

 その後、怪人の襲来で両親を亡くした日々輝は大戦隊の一員となり、憧れのレッドキーパーのように「怪人を討伐する」という正義観に芽生えるのだが、次第に大戦隊という組織の欺瞞を感じるようになり、大戦隊への復讐に燃える戦闘員Dに協力するようになる。それは日々輝と戦闘員Dが「わたしたち」の関係でつながったからに他ならない。このように、日々輝の「正義」は両親・大戦隊・戦闘員D――と身を寄せたり、新たに構築した共同体によって、形を変えてきているのだ。

 ここから導き出せる結論は、「正義」とはある対象や行為を共同体の内側(わたしたち)から見たものであり、その「正義」を脅かす存在が「悪」になる、ということ。共同体の数だけ「正義」が存在し、また「悪」も存在する、ということ。そして何より、「正義」と「悪」はコインのように互いに背中合わせの関係にあり、視点次第でそれぞれの捉え方が異なるということだ。ここで言う視点とは、自らが属する共同体にほかならない。

 畢竟するに、『戦隊大失格』が暴いているのは、「絶対的な正義/悪」などこの世には存在せず、また、「正義」と「悪」がそれぞれ独立して存在しているのでなく、表裏一体の関係にあるということではないだろうか。だからこそ、戦闘員Dや桜間日々輝、錫切夢子、ドラゴンキーパー、各部隊の従一位、訓練生、戦闘員XX……など、怪人・戦隊の別を問わず、あまねくキャラクターに魅力を感じ、その一挙手一投足から目が離せないのだろう。

 

■作品概要

『戦隊大失格』

原作:春場ねぎ(講談社週刊少年マガジン」連載) 

監督:さとうけいいち

シリーズ構成:大知慶一郎

キャラクターデザイン:古関果歩子

制作スタジオ:Yostar Pictures

放送時期:2024年春


www.youtube.com