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【書評】一連のオウム真理教事件を再構成――『沙林 偽りの王国』

 1995年3月20日朝の通勤時間帯、営団地下鉄(現東京メトロ日比谷線丸ノ内線、千代田線の車両内にて猛毒のサリンが撒かれた。地下鉄サリン事件である。オウム真理教教祖・麻原彰晃の指示を受けた幹部構成員らが各線の車内でサリンを散布。乗客ら約30人がサリン中毒で死亡、6500人以上がサリン中毒症の傷害を負い、今も重篤な後遺症に苦しんでいる被害者も少なくない。
 
 本書はオウム真理教信者が起こした一連の事件を、主人公の医師や警察関係者を架空の人物に置き換えた「フィクション」として構成した作品である。が、それ以外はすべて事実に基づいている。

 本作は地下鉄サリン事件の1年前に発生した松本サリン事件で幕を開ける。94年6月27日、長野県松本市の裁判所職員宿舎ならびにその近隣にサリンを噴霧。8人が亡くなり600人が重軽傷を負った。事件の第一報を受けた九州大学医学部教授の沢井直尚は、被害者の病状や容体などから、すぐさまサリン中毒を疑う。サリンは第2次世界大戦前のドイツで、有機リン系農薬を製造する過程で発見された化学物質。生成には多くの薬剤と装置が必要となるため、何らかの組織的犯罪であると沢井はにらむ。

 事件の経過が明らかになるにつれ、沢井の疑惑は確信へと変わるが、当の長野県警理工学部卒業で化学薬品会社勤務という経歴を理由に、事件の被害者である男性を重要参考人として聴取する。自宅の家宅捜索も行われ、マスメディアもこの男性が事件に関与しているかのように報道。疑いの目は一気にこの男性に向くことになる。

 もちろんこの男性は被害者でしかないのだが、結局、疑いが晴れるきっかけとなったのが翌年初に山梨県上九一色村(現富士河口湖町)の教団施設での異臭騒ぎであり、身の潔白が完全に証明されるのは地下鉄サリン事件である。裏を返せば、地下鉄サリン事件が起こるまで、オウム真理教が一連の事件の当事者であることを追及できなかったのだ。

 もし松本サリン事件の捜査方針が間違っていなければ、オウム真理教の関与をもっと早く突き止めていたら、地下鉄サリン事件を阻止できたのではないか――。麻原の逮捕に際し、沢井はこう総括する。

フィクションだからこそ描けること

 冒頭に記したように、本作は事実をもとに構成した「フィクション」である。実際に、序文には「本作品は、当時の歴史的事実をもとに小説として再構成したフィクションであり、作中の主人公や同僚などはすべて架空の人物である」とある。

 なぜフィクションという構成を選んだのだろうか。「小説家だから」といえば元も子もないが、ドキュメンタリーとして執筆する選択肢もあったはずだ。ノンフィクションではなくフィクションでなければならない理由は何か――。

 これを考えるにあたり、参考となるインタビューがある。文春オンラインに掲載されている平野啓一郎氏と小川洋子氏の両芥川賞作家による対談である(平野啓一郎×小川洋子「フィクションだけが持つ力とは」文春オンライン)。この対談の中で、平野氏はフィクションの効能について次のように語っている。

小説にせよ映画にせよ、自分とはずいぶんと違う境遇の登場人物に、読んだ人や観た人が「自分のことだ」と共感する――フィクションはそもそもそういうものです。

 つまり、作中の事象を第三者ではなく当事者として捉えるには、フィクションという手法がもってこいなのである。

 ここまで来ると、本書の存在意義が鮮明に見えてくるのではないだろうか。すなわち、オウム真理教が引き起こした一連の事件を”自分ごと”として捉えなおすための一冊である、と。

 2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫の死刑が執行された。しかし、サリン中毒の後遺症に今なお苦しむ被害者も少なくない。そもそも、なぜ高学歴で将来を嘱望されていた若者が容易に洗脳され、凶行へと駆り立てたのか。この問題も究明できていないのである。

 本書を”自分ごと”として捉えなおすと、一連の事件はまだ決着がついていないという峻厳な事実に直面する。