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【書評】一方通行化する「言葉」への警告――『東京都同情塔』

 東京2020オリンピック・パラリンピック大会のメイン会場に使用された新国立競技場。その目と鼻の先にある新宿御苑に、70階建ての高層建築物が屹立している。通称「シンパシータワートーキョー」。東京スカイツリーや東京タワーのように、都会のシンボルとして大衆の耳目を集めているが、実態は犯罪者を収容する刑務施設である。

 もちろん、私たちが暮らす日本にはこのような施設は存在しない。実際の新宿御苑は四季折々の自然に間近で触れることのできる、風光明媚で静穏な自然公園だ。

 そう、本作『東京都同情塔』は「もう一つの日本」、いわゆるパラレルワールドのわが国を舞台にした作品で、「言葉」と「現実」をめぐるジレンマと社会が直面する課題がいみじくも描かれている。第170回芥川賞受賞作で、「作品の一部分を生成AIが執筆した」ことでも有名だ。

言葉と現実をめぐるジレンマ

 本作の舞台である「もう一つの日本」では過激な表現、配慮を要する表現を忌避する風潮が強く、ありとあらゆる日本語が「カタカナ語」に置き換えられている。例えば、「育児放棄」は「ネグレクト」、「配偶者」は「パートナー」、「全性別」は「ジェンダーフリー」といったように、ありとあらゆる局面でカタカナ語が多用されているのだ。この背後には、これらの言葉が持つマイルドさをもって、不平等感や差別感を排除すべきという社会の潮流が見え隠れする。

 「シンパシータワートーキョー」も同様だ。「もう一つの日本」では、犯罪者は本人の出自や境遇、パーソナリティーについて同情を示されるべき存在「ホモ・ミゼラビリス」(「ホモ・サピエンス」と「あわれ」を意味する「ミゼラブル」を掛け合わせた造語)と再定義されている。「犯罪者」「受刑者」などという言葉は差別的表現で、口にするのはもちろんご法度だ。そんな同情されるべき人々が入居する施設。それが「シンパシータワートーキョー」である。

現代のバベルの塔

 主人公で建築家の牧名沙羅は、「シンパシータワートーキョー」というフレーズに嫌悪感を示しながらも、名称の決定は建築家の範疇にないと折り合いをつけ、タワーの設計を手がける。しかし、のちに彼女はタワー建設の否定派(ホモ・ミゼラビリスにシンパシーすることを良しとしない連中)から苛烈な誹謗中傷に晒され、隠遁生活を余儀なくされる。

 沙羅のもとに寄せられる誹謗中傷の数々は、上に挙げた「差別語」よりも過激で、より差別的な意味合いを帯びている。そのさまは、過激な表現、配慮を要する表現を忌避する社会の風潮とは真逆だ。

 本作が焦点を当てている問題もこの点にある。要するに、社会に向けられる言葉が婉曲的でマイルド化する一方、個人に向けられる言葉は尖鋭的で過激さを増しているという実態。すなわち、言葉の「二極化」である。

 言葉とはコミュニケーションのための手段である。自分自身の思いや考えを伝えるには言葉を用いるほかなく、言葉の先にはそれを伝えたい相手や対象物が存在する。つまるところ、言葉の本質はその「双方向性」にあるのだ。

 一方で、本作に出てくる言葉の数々は双方向性に著しく欠けている。どれもこれも一方通行なのだ。社会に向けられる言葉は多方面に配慮を重ねた結果、意味を捉えるのが難しい無機質な性質を帯びているし、個人に向けられる言葉は端から平和的なコミュニケーションを放棄した、過激で陰湿な表現に終始している。

 沙羅は想像する。やがて来る未来、言葉の双方向性は失われてしまうだろう――と。まさに、「ホモ・ミゼラビリス」を提唱した幸福学者が交わした最期のやりとりのように。このように、「言葉の二極化が進み、双方向性が失われた結果、意思疎通を円滑に図れないディスコミュニケーション状態が常態化する」という問題意識は、現代の日本社会にも通底しているように感じる。

 「創世記」には、人々が天に達するほどの高塔を建てた結果、神の逆鱗に触れ、言葉が乱され相互に意思疎通が図れなくなったという物語がある。本作が予測する未来も創世記のこれに近い。

 言うなれば、シンパシータワートーキョーは現代の「バベルの塔」なのだ。